美しきもの見し人は
CDP-101
CDP-101 とエジソンの蓄音機 | CDP-101 |
写真は1982年に世界で初めて発売されたソニーのCDプレイヤー、CDP-101。
101という商品番号は、エジソンの蓄音機の発明後約100年後に商品化された最初のデジタル機器であり、ゼロと1のデジタル信号を象徴するものだ。
当時の価格は¥168,000 と、極めて高価だったが、デジタル技術が初めて民生用の商品に応用された記念碑的なオーディオ商品として位置づけるだけでは済まない、その後の世の中のあらゆる動向に決定的な影響を及ぼした商品であり、革命的な技術開発であったと言っても過言ではありません。
たかが一メーカーの新商品について、大げさではないかと言うなかれ。
それについて詳細は後半に述べるが、まずはこの商品が世に出るまでのエピソードを紹介したい ;
オーディオのデジタル化は1968年、世界で初めてのデジタル録音機がNHK技術研究所で開発された。
その指揮を執ったのがNHK音響技術研究所の中島平太郎 (1921 ~ 2017) だった。
* (デジタル録音技術はレコード会社のデンオン( 日本コロンビア)によっていち早く採用され、1972年には世界初のデジタル録音によるLPレコードが発売された。)
1968年にNHKの技術研究所長となった中島を3年後の1971年にソニーの音響研究所長へと招聘したのは
ソニーの社長、井深大だった。
当然のことながら井深は中島平太郎にデジタル技術の開発と商品化を期待したと思われるかもしれないが、事実は逆で、井深は中島にデジタル技術の開発を禁止したのだった。
その理由は不明だが、半導体の専門家は、当時ソニーが手がけていた卓上電子計算機の”SOBAX” からの撤退を余儀なくされた井深の、底知れない投資を強いられる半導体事業への躊躇いにあったのではないかと指摘している。
当時の電動計算機は10桁の四則演算にまずプログラムの入力が必要となり、計算は歯車やリレーの立てる大きな音で10数秒もかかり、それが印刷されるまで結果を待たねばならないという時代だった。
ソニーの ”SOBAX (1967 - 1973) ” は計算式を筆記同様にキーボードで入力し、無音で瞬時に20桁の答えがネオン管に表示されるという操作性の良さで一定の評価を得てはいたが、1000個近いトランジスターを使用していたため 30W もの電力を消費し、重く高価なため、IC や LSI を開発してコストダウンに成功したカシオ計算機やシャープ等との競争に敗れ去ったのだった。
まして、オーディオをデジタル化するとなれば、膨大な回路の IC/ LSI 化への研究と投資とが必要となり、当時のソニーの経済力では耐えられないと、考えたのだろう。
しかし、NHKの技術研究所長としてオーディオ技術の最先端を司っていた中島にしてみれば、アナログ技術の限界は明らかであり、デジタル技術を取り入れなければオーディオに未来はないとの確信を抱いていた。
これが松下や東芝、日立であったなら、社長が禁止すれば、全員が従うに違いない。
だが、ソニーという企業の特色は、夫々の技術分野の開発を担っている技術者たちが自分が社長のつもりでいたから、社長の禁止命令などは知ったことではないと 己の信念の赴くままに突き進み、無数の失敗を重ねながらも、辛うじて大ヒット商品を創り出して今日まで生き延びて来たのだった。
すでにNHKにてオーディオのデジタル化に成功した中島にしてみれば、ソニーの音響研究所長として招聘されたからには、デジタル技術の一般商品化への道を歩み出す以外の選択肢は無かった。
幸いなことに、音響研究所は五反田の本社からは離れた品川にあり、井深の目の届かないところでデジタル・オーデイオ研究を進めることができた。
研究の責任者は中島だったが、実質的に開発を進めたのは後に家庭用ロボットの AIBO やQLIO を開発し、ソニー・コンピューター研究所長としてワークステーションの ”NEWS” 等、後のソニーの進路を先導した、デジタルオーディオ研究開発プロジェクトマネージャーの土井忠利 (1945 ~)だった。
主にアナログ信号を正しくデジタル信号に置き換え、再びアナログに戻す回路の理論と実践を受け持ったのがソニーで、フィリップスでは先行して開発していた光ディスクを担当した。
しかしソニー側も、別途開発部で、当時の社長であり、中央研究所長でもあった岩間和夫が、やがて”光”の時代が来るという展望の下に光ディスクの開発を進めていた。
その責任者がトリニトロン方式カラーTVの開発を行った宮岡千里 (1937 ~ 2014) だった
アナログからデジタルへの移行
デジタルという言葉の語源はラテン語で ”指” を意味する ”digitus : ディジトゥス” に由来し、”指で数える”
ことを意味する。
デジタルという言葉が一般的になったのは比較的に近年のことで、0と1との二進法を使うデジタル方式の
コンピューターが一般的になってからのことだ。
これに対する ”アナログ” とは数学の ”相似” の意味で、音響や映像の世界では信号の録音、増幅、伝送、再生等の全ての処理が、音波、振動、磁束密度、電波、等々が大小の違いはあれ、相似する波形を扱って行われることに由来する。
エジソンの発明した蓄音機が、音を振動板に付いた針で銀箔に波として刻むことで記録し、再生は、逆に振動版に刻まれた波を針で辿って、振動板を震わせる、という原理がその後の電気を使ったマイクロフォン、磁気テープへの磁束の変化の記録、アンプによる信号の増幅、電波での伝送へと、一連のアナログの技術を組み合わせる方法が100年来の改良を重ねて使われてきたわけだ。
空気の振動である音をレコードに波の溝として刻み込んで記録し、再生するという方法、は原始的ではあるが画期的な発明であった。
が、アナログ技術では再生を重ねるにつれて記録した溝がすり減って雑音を発生する、放送電波も距離が遠くなると、信号が弱くなる等々、様々な弱点が避けられない。
このため、信号を0と1とのデジタル信号に変換して転送する技術が考案され、1960年ころから長距離電話や、軍事、宇宙通信等の分野では既に使われ始めていた。
中島平太郎はNHKの放送技術研究所にて開発したデジタル録音技術をソニーで一般向けの音響機器に採用すべく開発を進め、1974年には固定式のマルチヘッドを採用したデジタルレコーダーを、さらに1976年には家庭用のVTR、ベータマックスを使うデジタルレコーダーの開発と、着々とデジタル技術の応用を進めていた。
アナログ信号をデジタル信号に変換するためには様々な方法があるが、CDには PCM (Pulse Code Modulation : パルス符号変調)という技術が用いられる ;
CDの基本的な規格であるサンプリング周波数 44.1kHz,16ビットとは、1秒毎の音楽データを44,100回に分割し、それぞれの瞬間の音信号の大きさを16ビット(65,536段階) の数字で表すことを意味します。
この操作はアナログ信号をデジタル信号に変換するのでA/Dコンバーターと呼ばれる回路で行われ、再生の場合は、この逆の操作でデジタルからアナログに変換されるD/Aコンバーターの回路を通します。
いずれも一種のコンピューターですが、開発当時は市販の量産品などはなく、宇宙通信や軍用に使われていた夫々が1個30万円もする代物でした。
コンパクト・ディスクの開発
1978年、当時ソニーの副社長でCBSソニーレコードの社長でもあった大賀典夫がコンパクト・カセットの開発と普及を共にしたフィリップスの本社を訪れ、開発途上のALP (Audio Long Play) を紹介された。
1時間の音楽が記録された直径11.5㎝ の光ディスクをレーザー光線で再生するという方式である。
その前年、1977年9月に、世界の29社による DAD ( Digital Audio Disc ) 懇談会が発足し、次世代のオーディオのデジタル化への流れが始まっていた。
当時、提唱されていたデジタル・ディスクには次の三つの方式だった ;
1. フィリップスとソニーの光ディスク方式
2. ドイツ・テレフンケンの機械式
3. 日本ビクターの静電容量方式
全く方式の異なる技術を開発している各社がいくら話し合っても統一規格がまとまる筈もなく、ソニーとフィリップスは光ディスク方式を協同開発することを決定した;
光ディスクの技術ではフィリップスが先行していたのだが、最初に提唱された14 ビット、11.5cm径のディスクに1時間の音楽を記録可能という内容ではダイナミックレンジが84dB と物足りなく、収録時間も少な過ぎるため将来性がない、と、最終的にソニーが提案した12cm径のディスクに16ビットで75分の記録が可能な規格に決定した。
当時の技術で16ビットは不可能な水準だったが、ソニーが全力を挙げて開発することになり、大賀副社長の提案で1982年10月にCDプレーヤーと音楽ソフトを発売することが決定された。
コンパクトディスクについて
ポリカーボネート樹脂のディスクの表面にレーザーで形成された1ミクロン(1000分の1mm)ほどの大きさと
0.1ミクロン(1万分の1mm) の深さのピットと呼ばれる穴がレーザーで20億個程形成されている。
CDはLPレコードとは逆に内側から信号が記録され、内周では2000rpm ~ 外周では500rpm(分速500回転)、と高速で回転するディスクに刻まれた信号を波長780nmの赤外線レーザーで読み取る仕組みとなっている。
12cm径のディスクは15g程度と軽いため、2000rpmの高速回転にもメカニズムには大きな負担がかからない。
ただし、20億個のデジタル信号は曲の順番通りに記録されているわけではない ;
その理由はデジタルでは信号が0(無い)と1(有る)で記録しているため、下記のような様々な要因 ;
CDの製造過程で起きた傷、表面についた埃や傷、高速で回転するCDの僅かな反りや回転むら、サーボや同期信号の乱れ等々による読み出しのエラー等々の理由で 一つでもゼロと1の信号読み取りの順序が狂ってしまう : いわば20億個あるシャツのボタンの順序をかけ間違うと、どうにも具合が悪くなるが、デジタルのCDでは同様に再生が滅茶滅茶になってしまうからだ。
という事態を防ぐために、誤り補正と誤り訂正信号が組み込まれた信号団塊をシャッフルするような形で
記録されている。
詳しい内容は省略(実は何度説明されても、易しい入門書をいくら読んでも理解できないガロアの群論が応用されている : エヴァリスト・ガロア (1811~1832) 決闘の傷がもとで20歳で死んでしまった、ガウス、オイラー、ラマヌジャンと並ぶ数学史上稀代の天才が17歳の高校生の時に発想した理論で、死後40年余り経ってようやく世間から認められた理論です : 現在ではQRコード、マイナンバー、バーコード、クレジットカード、銀行口座等々、ありとあらゆる分野に採用されている。
このガロアの群論が応用されたことにより、CDで起き得るあらゆる読み取りエラーは、1枚のCDを数か月続けて演奏してもエラーが一度起き得るほどの極小の確率になっていて、万一エラーが起きても訂正されるという仕組みになっている。
と、私事になりますが、実はCDの開発当時に、ソニーのオーデイオのマーケティングを担当していたので、担当の技術者たちとは面識があり、彼らは見るからに秀才という若い技術者ばかりで、プロジェクトを率いた土井利忠、ディスク開発担当の宮岡千里 ともども、最先端の分野を切り開いたソニーの技術者というのは別世界の人たちという印象を受けたことが未だに記憶に残っている。
開発途上の1エピソード
CDの開発は前述のようにオランダのフィリップスと日本のソニーとが光ディスクと、デジタル/アナログ信号処理の回路とを交互に進め、技術者が両国を往復しながら進めたわけだが、フィリップスから、試作機が出来たから受け取りに来てくれという連絡が入った :
写真には机の上に置かれた、技術者たちも初めて見るコンパクトディスク・ディスク・プレーヤーがあり、大いなる期待を抱いてオランダまで出かけて行ったのは良かったのだが、机の上に乗った第1号は確かに光ディスクプレーヤーだったが、実はそれが置かれている机の内部にぎっしりと詰まっている、総重量250㎏もの代物が回路の部品群だった。
考えてみれば、最終的な回路構成も決まっていないのだから LSI 化が着手できるわけがなく、フィリップス側では、トランジスター、ダイオード、抵抗、コンデンサー、簡単なIC等、膨大な部品を組み合わせて,取り合えず動作する試作品を仕上げたというわけ。
商品製造の経験がない開発技術者たちは、コンパクトディスクプレーヤーだから、とコンパクトなプレーヤー部分だけを見て早合点してしまった。
ともあれ、フィリップスの試作機とソニーの試作品も完成し、コンパクトディスクが確かに動作することが確認されたのは、最終的な生産と発売まで2年もない時期だった。
ただの商品とは異なり、誰も手掛けたことのない、アナログ/デジタル/アナログの変換回路やガロア群論を応用した誤り補正/訂正回路を含む大規模な回路を担う500個のICを3個のLSIにまで集約する設計作業と、半導体工場の生産設備の準備、CDプレーヤーの最も重要な半導体レーザーと、それを組み込んだ光ピックアップの量産化、さらに最も重要なデジタル音源の収録と、それを収めるディスクの量産設備等々、フィリップスとソニーにとっては、さながらアポロ計画に匹敵するプロジェクトだったといっても過言ではありません。
ソニーとフィリップスとが総力を挙げて推進したのは間違いないが、それ以外に日本の各分野で先行していた他社の技術が大いに貢献した事実も見逃すわけにはゆかない ;
CDプレーヤーの最も重要な半導体レーザーは、シャープが開発したばかりの波長が780nmのGaAlAsレーザー、それを組み込んで、高速で回転するディスクに刻まれミクロン以下の大きさのピットを読み取る光ピックアップはオリンパス、さらにポリカーボネート製の、20億もの超微細なピットが記録されたコンパクトディスクの量産技術には、KDDや太陽誘電、等々、内外の専門各社の最先端技術があってこそ可能でありました。
レーザー・ディスク・プレーヤー
CD導入の前年、1981年に同じ光ディスクで映像を記録できるレーザーディスク・プレーヤーがパイオニアから発売されたことに触れないわけにはゆかない。
パイオニアが光記録再生ディスクの開発を始めたのは1970年と古く、その後世界の各社が、圧電式、静電式等、様々な技術で映像を記録再生可能なディスクの開発を進め、最終的にパイオニアが光ディスクで先行し、1983年に圧電方式のVHDを発売したビクター、松下等日本の十数社に圧勝したのは、無接触の光ディスク方式が、当時のNTSCカラー方式TVの240本を遥かに上回る400本の高解像度と、非圧縮のFMの音声の音質の高さが評価されたためだ。
ただし、レーザーディスクの映像はデジタルではなく、FM変調したNTSC信号をスライスした矩形波にして記録するというアナログ方式だ。
30cmのアクリルを貼り合わせた、厚さ2.5㎜、重量が 480g の重いディスクの片面に記録された、300億ピットの信号が刻まれた信号を、分速 600~1800の高速で回転させることで高画質を得ていたものだ。
当時としては驚異的な性能を持つ、アナログ技術の最後に至高の光を放った記念碑的な技術であり、商品であったと評価できるものです。
かくいう私も、テープと比較して割安で、格段の高画質のレーザーディスクのソフトを200枚余り入手してオペラや様々なプログラムを楽しんでいたものでした。
しかしながら、レーザーディスクの480gの重量ディスクを最大で分速1800rpmもの高速で回転させるという方式は、メカニズムの耐久力の限界を超える内容で、機械の信頼性の点で致命的な欠点となった。
このため、さらに、コストダウンのために頻繁にモデルチェンジを繰り返したために、信頼性の検討が不十分であったためだろう、プレーヤーは次々と故障し、部品の供給とサービス体制が伴わないために、結局修理が不可能となり、200枚ものソフトを見るために、結局 4台ものプレーヤーを購入する羽目になったが、結局全て壊れたまま、200枚のディスクが残されたままになっている。
もっとも、これはレーザーディスクだけの問題ではない ; 昔のSP,LPレコード、膨大なカセットテープ、VHS、8㎜、ベータテープ、昔のゲーム機やソフト等々、さらにパソコンや周辺機器、と目まぐるしい技術の変転の果てに残された膨大なソフトとハードウェアの残骸の山にはいささか思うところがある ; こうした過去の積み重ねの上に、こんにちの世の中の在り様が出現したのだと。
至高のアナログ技術を極めたレーザーディスクは、その後、急激に発達したビデオソフトのレンタルビジネス、さらにコンパクトなDVD、超高精細のブルーレイディスクの開発、と、デジタル技術の急速な発展に対応出来ず、2009年に生産停止となったのみならず、企業の存続もままならず、2015年に消滅した。
ついでながら、ソニーがCD開発途上に、パイオニアが光ディスク技術の開発を着々と進めている状況で、
光ディスクはアナログでも出来るのに、何故”海のものとも山のものともしれないデジタル”で苦労しければならないのか ? という批判が、外部のみならず、ソニー内部からも寄せられたものだった。
もしソニーがアナログのみに注力していたら、今頃どうなっていたことだろう ?????
CDの発売時の状況
ソニーとフィリップスとが社運をかけて開発したコンパクトディスクが発売後に直ちに爆発的に売れたかと言えば、そうではなかった。
1982 年発売時にプレーヤーが168,000円、ソフトも種類が少なく、4,000円を超えるとあっては、一部のマニアが飛びつくだけで、一般には縁遠いものでした。
さらに世界のレコード会社は半導体工場並みの投資が必要となる、海のものとも山のものとも分からないCDへの新たな生産設備への莫大な投資には大反対というありさまだった。
したがって音楽CDはフィリップスとソニー傘下のレコード会社からのみ発売されただけで、魅力あるソフトが少ないのでプレーヤーも売れない、とCDの門出は厳しい逆風に晒されたというのが実情だった。
D-50の登場
1984年11月発売のD-50
CDの逆境の救世主となったのが、2年後の1984年11月にソニーのウォークマン等を担当しているゼネラル・オーディオ部門から発売された”手のひらサイズのCDプレーヤー D-50 ”だった。
CD普及のためにはプレーヤーの値段は5万円以下でなければならない、との内外の要求に応じて開発された商品だった。
D-50の機能や中身は、実は最初に発売されたCDP-101と大して変わらないものだった。
発売後2年程度で、コストを三分の一に下げることはソニーといえども不可能であり、マーケティング戦略最優先で決定された値段だった。
発売当初のD-50の原価率は200%、即ち1台売れると5万円の損失が出るという値付けだった !!!!!
では100万台売ったら5000 億円の赤字となるのか ? と問われると、そうはならなかった。
この値段に、世界が飛びついた。 誰もが手の届く値段になるのを待っていたのだ。
爆発的な売れ行きとなったD-50 は、大量生産のおかげでコストがどんどん下がり、1年半後には損失を取返し、2年後以降は十分に利益の出る商品となった。
ハードが売れれば当然ソフトにも勢いがつく。
1984年にLPレコードの1/10の枚数しか売れなかったCDレコードは1986年にはLPと同じ4500万枚に達し、1988年には全盛時のLP販売数の1億枚を達成、さらに1992年には3億枚と、記録的な販売数となった。
ソニーは増大するCDレコード生産のためにアメリカとヨーロッパにも工場を建設し、他社のCDレコードも受注して、世の中は一気にCDの時代となった。
次世代 CDへ
CD 開発当時 の1970 年代には最先端のデジタル技術が採用され、一般の使用には十分すぎるほどの水準でしたが、しかし専門の、とりわけ欧米の多くの録音技術者や音楽評論家の大半がデジタルの音楽性に懐疑的でありました ; CD導入前の1972年頃かDENON がデジタルで録音したプログラムがLPで発売されていましたが、広大な周波数特性や、雑音や歪の少なさといったデータ上の優位は認めていたものの、肝心の音楽性に疑問があるというのが根本的な問題であった。
技術者出身のオーデイオ評論家が大半の日本とは異なり、欧米のオーディオ誌の評論家の大半が録音技術者やプロの音楽家出身であり、技術面よりは音楽性を重視する立場からデジタル技術を捉えていたためだ。
これは連続する音を細かく切り刻んでデジタル記号に変換して記録し、再生時に再びアナログに変換する過程で失われる信号があり、それが音質、正確には音楽性を損なうことになり、とりわけ鋭敏な聴覚を持つ音楽関係者たちに指摘されていたことだ。
連続する波である音を細かく切り刻んで1(ある)と0(ない)と区分けして記録再生するデジタルですが、実際には信号が0と1になるわけではなく、その中間のデジタル信号が得られるので、0.5を境にそれ以上を切り上げて1,それ以下では切り捨てて0と区分けされます。
つまり、ほぼ同じ信号でありながら、0.49はゼロ、0.51 は1とされますが、こうした操作が集積されると、原音と全く同じ音が記録再生されるわけではありません。
もちろん、前述のように1秒間に音楽データが44,100回も、65,536の段階の詳細を極める信号に分割されるわけで、殆どの人には、その過程で失われる音を感知することはできません。
ところが、世の中にはどうやらそれが可能な鋭敏な聴覚を持った人たちも存在するようです。
例えば、グレン・グールドが1980年に録音したバッハの2度目のゴルトベルク変奏曲です。
既にソニーは16 ビットのPCM 録音機を開発していましたから、新しい物好きのグレン・グールドがデジタル録音を大いに歓迎し、デジタル録音のレコードが発売されました。これはもちろんその後CDでも発売されました。
が、その録音時に、ソニーミュージックでは並行してアナログのテープレコーダーでも記録していました。
そして、これを聴いた録音技術者や関係者たちから、アナログ版の方が音質が良いという声が上がり、ソニーミュージックは後に、PCM 録音盤とアナログ録音盤、さらにPCM 録音されたテープを、後に開発された SACD 用の DSD技術でマスターし直したCDをセットで出したほどです。
SACD (Super Audio Disc) の登場
こうして、1980年代以前の開発時の技術の限界であった 16 ビット、サンプリング周波数が 44.1KHz の規格は、その後 20ビット、24 ビット、サンプリング周波数も 96kHz, 192kHz へと拡大され、即ち、音を切り刻む単位が格段に小さ くなり、それで失われる信号が少なくなり、音質が次第に改善されて来た。
最終的には、1999年にCDの700 MB、16 ビット、44.1kHz から記憶容量が 4.7GB、サンプリング周波数が 2.8224MHz、へと拡大され、16 ビットの PCM ((パルス符号変調)ではなく 1 ビットの DSD(Direct Stream Digital、あるいはΔΣ変調)方式のスーパーオーディオディスク(SACD)が登場した。
SACDにはマルチチャンネルの仕様もありますが、普通のステレオでも自然な臨場感が印象に残ります。
この自然な臨場感の再現能力は何に起因するのか ? ;
CDの16 ビット、44.1kHz とはそれぞれの瞬間の時間の音信号の大きさを65,536段階の数字で表す方法で、時間軸方向には粗いが、諧調方向には高精度。
一方 SACD の 1ビット、2.822MHzはその直前の音信号に対して 「次の信号ではその前の音に対し音がどう変わるか」 だけを 1 ビットで表す方法で、時間軸方向に細かいが、諧調方向には低精度と、対照的な特性です。
SACDの時間軸方向に細かいという特徴は、10KHz~20KHzの波形の再現性が優れている。
さらにSACDに採用されたDSD(Direct Stream Digital : ΔΣ変調)ではアナログ/デジタ変換は、入力信号を一度積分してから変換する : 信号レベルの大きさをビットの粗密で表現し、逆にデジタから/アナログに戻す方法が単純 : 差分が表されているので、それを次々に足し合わせる:積分するだけで良い(複雑な計算や回路を必要としない)、即ち単純なアナログ的なローパスフィルターで済むことです。
CDの技術の徹底した見直しにより、自然な音場感の再現が可能となったと考えられます。
しかしながらSACDがCDにとって代わる新しいデジタルオーディオとして普及したかと言えば、逆に大した普及もせずに、逆に衰退に向かっているというのが現状です;
それには二つの理由が考えられます。
* SACD再生プレーヤーが高価である。そのソフトも割高で発売数が少ない、と悪循環を辿っている。
* 昔のSP/LPレコードや、PCMで記録された音楽ソースを DSD でリマスターしたCDが続々と廉価で発売され、これらの音質が高価な SACD と大差ない。
即ち、SACDの高音質は、実は4.7MBという大容量のディスクに音楽を記録した余裕の容量の大きさよりは、むしろ DSD による記録再生方式が大いに貢献していると考えられます。
そのためアナログであれPCMであれ、古い録音をDSDでリマスタリング処理したCDが多数再版されていますが、その音質がSACDと比較しても遜色ありません。
CDの衰退
2024年末現在、市場に存在するCDプレーヤーで10万円以下の製品は数機種しか存在しません。
モデル数では数十万円~100万円超の高価格品の方がその数倍も出回っています。
即ち大半のメーカーがCDプレーヤーの開発、製造と販売から撤退しています。
開発者のソニーに至ってはこの10数年来、疾うの昔にCDプレーヤーの開発、生産、販売から撤退しています。
その一方で、近年、人気が復活してきた昔のLPレコードの再生プレーヤーを新たに発売している有様です。
音楽メディアのネット販売をしている HMV のページを開いても、新譜のアナウンスはCDとLPとが半々と言うのが現実です。
つまり、CDは、ハード、ソフト共に消えゆく運命といっても過言ではありません。
ただし、単体のCDプレーヤーこそ市場から姿を消しつつありますが、ソニーからはブルーレイ、SACD、DVD、CDと、全ての光ディスクを再生できる汎用プレーヤーが3万円程度の値段で販売されています。
こういうモデルはオーディオ専門誌では全く無視されている。
単体で数十万円とか百万円を超すようなCD専門プレーヤーと比較して音質が劣るのか言えば、そうではありません。
聴き比べても音質の差はまず分からないと言っても差し支えありません。
何故なら、3万円台とは言え、汎用プレーヤーは、CDとは比べ物にならない高精細のブルーレイディスクを再生できる程の回転機構や 20 年来の積み重ねた技術を盛り込んだ高密度の LSI 回路を搭載しています。
そして、海外や国内の超高価なCDプレーヤーに使われている三波長の半導体レーザーを含む光学部品や、デジタルーアナログ関連のLSI 等の大半は、実はソニーから供給されているものです。
それは、ソニーとフィリップスとで総力を挙げて開発してきた、デジタルの底力の賜物でもあります。
しかしながら、その努力の蓄積が、開発から20年を経て、CD関連産業の足元を致命的に崩壊させてしまうことになるとは、世の中の誰もが想像すらできなかったことでありました。
音楽を聴く習慣の変化
CDプレーヤーが全く売れなくなった理由の一つに、消費者の音楽を聴くスタイルが大きく変わったことが挙げられる。
それは、家で、高価でかさばるオーディオ・システムの前でかしこまって音楽を聴くという習慣がなくなってしまったことに尽きる。
それは、フィリップスとソニーが開発したコンパクト・カセットとウォークマンが爆発的に普及したことに端を発する ; 音楽は、何処でも好きな時にへッドフォンで高音質で楽しむもの、というのが今日の在り様。
コンピューターの台頭とインターネットの爆発的な普及によるデジタル社会の到来コンピューターは、かつては弾道計算や、暗号解読、さらには核兵器の開発等の軍事目的用の高速計算機として開発されてきたものだった。
が、その計算能力が、宇宙開発、産業用、さらにはビジネス分野での在庫管理、予算作成、経理処理等々、あらゆる分野に使われるようになった。
そしてコンピューター業界が最初に注目したのは記憶容量が700MBと大容量、かつ瞬時にデータを読みだせるという、CD の可能性だった。
CD 開発時には、今日のような大容量のハードディスクや半導体メモリーといった、瞬時に記録とアクセスと読み出しとが可能な大容量メモリーはなく、業務用には大型のテープレコーダーこそ大容量ではあったが、データの記録と読み出しには膨大な時間がかかり、一般用には記憶容量の小さい、フロッピーディスク等がようやく開発途上にあったのみ。
CDの最大の利点はそれがデジタルであるために、容易にコンピューターに取り込めるという、まさに時代を先取りした技術であったことに尽きる。
そして、音よりは遥かに大容量を必要とする映像の記録と再生が可能な、CDの発展型としてDVDが1995年代半ばに、続いて超高精細映像の記録と再生が可能で、50MBの容量を持つブルー・レイ・ディスクが開発され、デジタル放送の普及と、光ファイバー網と衛星通信によるインターネットとで、世界の何処にいようと情報を共有出来るという、デジタル社会が出現した事実は、皆様ご存じの通り。
デジタル社会の本質は、音と映像という、人間が容易に理解できる手段で、地球規模での情報の発信と受け取りが瞬時に可能になったことだ。
Napster と Spotify と YouTube の台頭
今日の世界の変貌を先取りするような出来事が、CDビジネスを巡って起きたのは1990年代末のことだった ;
アメリカのコンピューター オタク のハッカーが開発したCDのダウンロードとファイル交換システム Napster は個人が持つCDをデジタルファイルとして何処でも自由に閲覧し、無料でダウンロード出来るシステムで、たちまちのうちに世界中に拡大した ;
無料で好きな曲をいくらでも聴くことが出来るとあって、1年もしないうちに会員は数万、数十万、数百万、数千万に拡大したため、世界のCDの売り上げは急減し、アメリカの議会で著作権をめぐる公聴会ととレコード会社からの訴訟を経て、最終的には、これが著作権を侵害すると判断され、2003年に Napster は廃止された。
だが、同様のサービスは雨後の筍のように誕生した。
最終的に著作権侵害の問題をレコード会社と契約し、月間会費が \980 と有料の合法的な サービス Spotify が2006年にスウェーデンに設立され、2008年には月間6億人以上が利用する程に発展した。
現在は会員数は2億人を超えるほどの盛況となっている。
レコード会社にとっても、録音と編集しただけのソフトを、手間暇かけずに配信出来れば、時間と費用を劇的に削減して経営の安定が図れるとあって、今や世界の音楽業界はネット配信が主要な業態へと変わっている。
音楽に続いて、あらゆる動画や映像を含めた情報を配信する YOUTUBE(2005~) 等が台頭して来た ;
配信が始まった当初は映像の質が低く、見るに堪えないほどの水準だったが、デジタル技術の急速な発展に伴い、現在では4K、8Kの動画で、世界のあらゆる光景を楽しめるほどに様変わりしている。
そして、先の兵庫県知事選挙においても、旧来のメディアで極悪人扱いされ、失職を余儀なくされた知事が、短時日のうちに YouTube 等の新しい情報網により選挙で勝利するという劇的な展開となり、デジタルメディアが世の中を一変させてしまう威力をまざまざと印象させるに至った。
再びソニーとフィリップス、そしてGAFA
冒頭に述べたように、ソニーとフィリップスとが取り組んだコンパクト・ディスクというオーディオのデジタル化が、並行して急激に発展を遂げたコンピューターの一般化、インターネットの普及、光ファイバーと衛星通信等のデジタル時代の核心の技術として存在したことが、今日の世界の在り様に結びついたと言っても過言ではない。
音と映像という、我々にとって、最も根源的な認識手段がその中核に無ければ、インターネットがこれほどまでに普及し、成長することにはならなかったとは間違いのない事実なのだ。
もちろん、開発時には、ソニーもフィリップスも、今日の世界の在り様を想像することすら不可能だった。
そして、ソニーとフィリップスが手がけなくとも、いずれ他の誰かが手がけたには違いない。
だが、当時、傘下に音楽と映像を持つ両社が手がけなかったなら、今日現在のようなデジタル世界の出現は随分と遅れたに違いない。
数字と表とグラフしか扱えないコンピューターや、スマートフォンであったなら、世の中の大半は見向きもしないに違いない。
結果として、ソニーもフィリップスもCDのハードとソフトの技術の衰退という事態に直面しているのだが、一方では音楽、映像、ゲームソフトの配信で十分補えている。
それに比較すると、新聞、雑誌、出版、放送業界といった旧来のメディアは存続の憂き目に対面している。
さらに、Google、Amazon、Facebook, Apple といったデジタル社会の覇者がその力をますます増大させて、世界を支配するような時代に我々は生きている。
10年後の世界が一体どのように変貌しているのだろうか ?