三人のバッハ演奏


     
 加藤知子  前橋汀子 堀米ゆず子 
1999年5月、200年1月
山梨県牧丘町民文化ホールにて収録 
1988年6月、7月
長野県松本ハーモニー・ホールにて収録 
2015年3月、7月、2016年1月
相模湖交流センターにて収録 


 ヒラリー・ハーンに始まり、イザベル・ファウスト、五嶋みどり、と女性ヴァイオリニストによるバッハの無伴奏ヴァイオリン組曲集を聴いてきたが、彼女達と比べて技術的にも音楽的にも肩を並べる水準のヴァイオリン奏者の演奏を聴いてみた。
 ヒラリー・ハーンの演奏を語る際に、古今東西の名ヴァイオリニスト達、20人程の演奏と聴き比べたが、他の楽器と比べて、女性の、とりわけ日本の女性ヴァイオリニストの演奏は、ユーディ・メニューイン、ヤッシャ・ハイフェッツ、ヨーゼフ・シゲティー等、往年の巨匠と比較して、技術はもちろんだが、音楽性でも、遥かに高い水準にあると、感嘆するばかりだ。

前橋汀子のバッハ演奏

 1943年生まれであるから、これまで聴いてきた他の演奏者たちと比べると2世代以上昔の人だが、ヨーゼフ・シゲティー、ダヴィド・オイストラッフの演奏を聴いてヴァイオリニストを目指し、中学生時代から独学でロシア語を学んで17歳でレーニングラード音楽院に学び、その後ニューヨークのジュリアード音楽院にてロバート・マンやドロシー・ディレイに学び、さらにスイスのモントルーにてヨーゼフ・シゲティーやナタン・ミルシテインの薫陶を受けたという、なんとも凄い決意と行動力とをもって、日本の音楽界の先頭を走り続けてきた人だ。
 写真のCDは、五嶋みどりのCDを探していた時に目に留まったもので、1988年のバッハの無伴奏の全曲演奏の中の3曲をソニー・ミュージックがDSDにリマスターして手ごろな廉価版のシリーズとして出したものだ。
 一聴して演奏の素晴らしさに感嘆して、古い全曲盤を新たに買い求めたほど。 
 
 DSD(Direct Stream Digital : とは普通のCDの 16bit/44kHz の PCM (Pulse Code Modulation : パルス符号変調)に対し 1bit /2.8/5.6/11.2MHz の ΔΣ(デルタ・シグマ)変調 という方式で録音する技術であり、SACD(Super Audio CD )は全てDSD方式で録音されている。
 CDの44.1kHZ 、16ビットという規格は、音を 0 か 1 かのデジタル信号に変換するパルス符号変調で音を記録し、再生する方法。
 下の図のグラフが1秒間の音の波を縦軸で16ビット( 2の16乗 : 65,536)
x 44.100(44,1kHZ) の階段状のマス目に細分化し、0 か 1 かのデジタル信号に変換する概略の説明。 
 最近よく耳にするハイレゾ(High Resolution : 高解像度) という言葉は、縦軸の16 ビットを 20, 24 ビットに、横軸の 44.1kHz を96kHZ,192kHZへと細分化してより多くの情報を記録再生出来る。
 一方、DSDのデルタ・シグマ変調方式は、PCMとは全く異なる方式で、音の波を1/2,822,400秒~1/11,289,600 秒の高速でデータのオン・オフを並べ、その切り替えの疎密で音声を記録する。
 SACDが従来のCDより自然な音場再生能力が優れていると言われるが、それは自然の楽器の発音と同じ、音を疎密波として記録するDSD 方式に負うところが大きいのではないかと考えられる。 
 ただしDSD方式では編集が極めて困難という特徴があり、録音は一発勝負になるから、グレン・グールドのように20回ものテークの果てに気に入った部分だけを編集するという演奏スタイルには向かない。
 このため、PCM で録音された,あるいは昔のアナログで録音され、編集済みの音源をDSD方式でリマスターすして、往年の録音が再販される例が増えている。 グレングールドの全録音も、最新のCDは全てDSDリマスター版として再版されている。

 

 従って、彼女のバッハは6曲が古いPCMのものと、その一部がDSD リマスターされたものと2種類あり、同じ演奏がどう違って聞こえるか格好の材料となる。
 DSDリマスターの方が自然で伸びやかな音場感が再現できるのは当然ではあるが、しかし、昔のCDであっても、演奏のすばらしさは充分堪能できる。
 それに加えて2019年に、前橋汀子は2度目のバッハ全曲演奏を再録音し、これはCDとSACDのハイブリッド版になっている。
この新録音は未だ聴いてはいないが、いずれ入手したいと思っている。 というのも、1988年録音の全曲盤が余りにも素晴らしかったからに他ならない。 
 それは一言でいえば、古今東西のあらゆる演奏と比較しても、バッハの無伴奏を代表するもの、と言って過言ではないほどの、スケールが大きく、流麗な演奏であり、バッハを堪能したと実感させる演奏だ。
 CDの解説を読むと、彼女はシゲティーの薫陶を受けたから云々・・・とあるが、彼女の演奏はもうシゲティーやハイフェッツ等の往年の巨匠の水準を遥かに超えている。
 前橋汀子は 1732年製のグァリネル・デル・ジェスを弾いている。彼女の朗々とした雄大な、しかし細部にまで細やかな神経の行き届いた演奏は、この楽器により最大限の演奏効果が得られていると言えるだろう。
 だが、最近の演奏家、ヒラリー・ハーン、イザベル・ファウスト、五嶋みどりの演奏を聴くと、やはり彼女達なりに、新しい解釈でもってバッハに取り組み、さらに斬新なスタイルを築き上げているのも事実なのだ。 
 と言っても前橋汀子のバッハが古めかしいということでは決してない。
 新しい才能が出現し、それぞれの時代により音楽の解釈も演奏スタイルも変化するのは当然のことで、それぞれの時代を切り開いてきた演奏家たちの演奏を無心に楽しむことが何よりなのだ。
                                                               
 加藤知子のバッハ演奏

 
加藤知子は1957年生まれ、4歳よりヴァイオリン演奏を始め、1969年年小学 6 年生の時に全日本学生音楽コンクール全国大会小学生の部で第1位、1976年に桐朋学園大学に入学し江藤俊哉に師事、1978年全日本音楽コンクール、ヴァイオリン部門第1位.
 1981年から2年間ジュリアード音楽院にてヴァイオリンをドロシー・ディレイに学んだ。 
1982年にチャイコフスキーコンクールで第2位を受賞。 この時の1位はモスクワ音楽院でレオニード・コーガンやダヴィド・オイストラフに学んだロシア出身のヴィクトリア・ムローヴァと、セルゲイ・スタドレルの二人が1位を分け合ったという水準の高い大会だった。
 1983年に帰国して、桐朋音楽大学にてヴァイオリンの指導と同時にな国内外での演奏会や、録音活動を続け、没後250年を記念するバッハイヤーの1999年と200年にこの全曲録音を行った。
 2000年のCD発売時にも高い評価を受けたが、2012年に DENON の Master Sonic シリーズの廉価版として収録され、再版されたことから、ネットで絶賛の書き込みが急増し、ベストセラーになったとのこと。
 以上はすべて、このCDを入手してから知ったことで、実は加藤知子の名もこの演奏のことも全く知らなかった。
 ヒラリー・ハーンの演奏を聴いて、五嶋みどりのCDを探している際にこのCDが目に留まり、レコード芸術誌特選で、DSD録音であり、さらに廉価版にもかかわらずブルーレイと同じ高品質の Blue-Spec CD で出ていることもあり聴いてみようと思った次第。
 出だしのソナタ第1番のアダージオが流れ始めて直ちに、この演奏がただ者ではないことを悟り、聴き続けるにつれて、その思いがさらに強まり、2時間半余りの全曲を一気に聴いてしまった。
 前橋汀子の演奏を”太陽”とすれば、加藤知子の演奏は”月”と形容出来るだろう。
いずれかが優劣というのではなく、いずれもバッハ演奏の歴史に残る名演奏であることには変わりがない。
 加藤知子の玲瓏な、やや陰りを帯びた深みのある音色と表現とが、例えば秋の夜の冴え冴えとした月の光を浴びているような思いを呼び起こさせるのかもしれない。
 加藤知子は、年代は定かではないが、ストラディバリを演奏している。   


 堀米ゆず子のバッハ演奏

 
前述の二人のCDと前後して堀米ゆず子の同じ演奏がCDとして録音され、発売されたことを知った。
DSD録音であり、1741年製のグァルネリ・デル・ジェスを弾いているということ以上に、堀米ゆず子のバッハを聴いてみたいという思いがあったから、発売後に直ちに入手して聴いてみた。
 それ以来3年余り、ヒラリー・ハーン、イザベル・ファウスト、五嶋みどり、前橋汀子、加藤知子の誰よりも最も長く、繰り返しこの演奏を聴く時間が長かった。
 が、彼女の演奏が最も気に入ったというわけではない。逆にどうにも納得が行かなかったので、何故かと何度も何度も聞き直してみたというのが真相だ。  
 堀米ゆず子は前述の加藤知子とは生年が同じ。5歳からヴァイオリンを弾いていること、桐朋学園大学でも同期で江藤俊哉等、同じ教師の下で学んでいると、全く同じような環境でヴァイオリンを学んできた。
 しかし加藤知子が幼少時より音楽コンクールでの優勝を重ねて来たのに対して、堀米ゆず子にはそうした華麗な経歴は皆無だった。
 ところが桐朋学園大学を卒業したばかりのその年に開催されたブリュッセルでのエリーザベト王妃国際コンクールで優勝してしまった。
 長年日本人の演奏家が世界各地のコンクールに挑戦して次第に上位に入賞はしていたが、この時まで優勝者は出ていなかった。
 唯一の例外は小澤征爾が1959年のブザンソンの国際指揮者コンクールで優勝したことだった。
 世界的には全く無名だった堀米ゆず子が、チャイコフスキー、ショパンコンクールと並ぶ世界で最高峰の音楽コンクールでの優勝は、日本の音楽界にとって積年の悲願がようやく達成された快挙として話題を呼び、その後日本の演奏家たちが世界各地のコンクールにて次々と優勝する嚆矢ともなった出来事だった。
 ちょうどこの年にスイスのツークという小さな町に赴任したばかりの僕にとってこのニュースを聞いただけではなく、彼女がスイスの、それも隣町のルツェルンで演奏会を開き、実際に演奏を聴く機会があったことから、堀米ゆず子の名は忘れがたいものとして、脳裏に刻み込まれていたのだ。
 ルツェルンの街からツークに近い、我が家から20分ほどの湖畔の演奏会の印象は、実は殆ど記憶にない。
当時はクラシック音楽はレコードで聴いてはいたが、曲や演奏の良し悪しを云々するほど音楽を分かってはいなかったからだ。 
 引退して時間の余裕が出来て、じっくりと演奏を聴くことができるようになった近年になってようやく、少しは音楽が分かるようになったかというのが率直なところなのだ。
 堀米ゆず子は優勝の後はブリュッセル国立音楽院の客員教授を務める等、主にヨーロッパを中心に活躍していて、消息すら知らずにいたので、バッハの無伴奏の新録音に出会って大いに期待して聴いた。
 ところが、これまでに挙げてきた他の演奏家に抱いたようなバッハを聴いたという充足感を覚えることが出来ず、3年余り何故なのだろうかと自問しながら聴き続けてきた。
 エリザベート王妃国際コンクールで優勝し、その後ヨーロッパを中心に国際的な活躍を続けてきたヴァイオリニストであれば、演奏が下手というわけではもちろんなく、長年愛用してきた名器のグァルネリ・デル・ジェスの音色も申し分なく美しいのだ。
 彼女自ら全ての曲の楽章ごとに、7ページに及ぶ演奏家ならではの解釈や詳細な分析をライナー・ノートに書いているほどであるから、十分な準備を重ねた上でのバッハの無伴奏曲の全曲録音だったに違いない。
 後に調べて分かったことだが、彼女は1986年に3曲の無伴奏ヴァイオリンソナタを、更に1988年にバッハの2曲のヴァイオリン協奏曲と共にパルティータ第3番を録音している。
 それから30年を経ての初の全曲録音ということであれば、内容が伴わないことは有り得ない。
そんなわけで、改めて彼女のライナーノートをじっくりと読み、他の演奏かとも聴き比べながら、この1ケ月程、聴きこんでみた。 
 すると、堀米ゆず子が、楽章ごとに実に様々な工夫を凝らして演奏していることに気が付いた。
 これまで、何度も聴いてきて、リズム感が揺らいでいるのではないかと感じられたのは、実は演奏の細々とした工夫が、一聴すると音楽の流れを妨げているように感じられたのではないかと,今更ながら気付いた次第。
 だが、そうと気付けば、深々としたグァルネリ・デル・ジェスの流麗な音色と相まって、堀米ゆず子のバッハは
イザベル・ファウストの個性的な演奏と並ぶ、新しいバッハを代表する名演に違いないと、3年かかって、ようやく理解できたのが何よりの収穫だ。
 今となっては40年も昔のことだが、ルツェルン郊外の湖畔の小さなホールで颯爽と演奏していた時の思い出が鮮やかに蘇る。  
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