バッハ 無伴奏チェロ組曲
Cello Suites No. 1-6 : Johann Sebastian Bach (1685 - 1750)


       
 ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラによる演奏 寺神戸亮
 2008年録音
 ヴィオラでの演奏 今井信子 
1997/1999年録音 
 バリトン・サクソフォーンの演奏
ヘンク・ファン・トゥヴィラート 2000年録音

 バッハが作曲していら以来すっかり忘れ去られ、退屈な練習曲に過ぎないと放置されていたこの曲集が復活したのは、何と200年近く経った、カザルスによる20世紀初頭のことだった。
 それによりこの組曲集の真価が認められ、今日ではチェロだけではなく、ギター、リュート、ヴィオラ、クラリネット、単独のサクソフォーン、4種のサクソフォーンによる演奏、さらにバッハの時代に存在した楽器の復元による演奏と、実にHMVオンラインのカタログだけでも200余を超えるCDが世に出ている。

 

寺門亮によるヴィオロンチェロ・ダ・スパッラによる演奏

 ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(肩のヴィオラ)とは、その名の通り肩にかけて演奏するチェロのこと。
似たような楽器に足に挟んで演奏する、ヴィオラ・ダ・ガンバ(足のガンバ)と呼ばれるガンバ族の楽器があり、
チェロは、このガンバ族の末裔だ。
 実は、一般に無伴奏チェロ組曲と呼ばれるバッハの組曲集は、本来はヴィオラ・ポンポーザと呼ばれる楽器のために作曲されたものと考えられている。
 バッハの時代にはチェロという楽器は未熟な楽器であり、オーケストラや合奏の低音部を受け持つだけの伴奏楽器でしかなかった。

 ヴィオラ・ポンポーザ

 バッハが演奏し、この楽器のために組曲を作曲したチェロの前身のヴィオラ・ポンポーザという楽器だが、これが如何なる楽器であったか、文献と、当時の絵に残っているだけだった。
 この楽器を研究しているアメリカとイタリアの音楽学者と、ヨーロッパでバイオリンや、ヴィオラ・ダ・ガンバ等の古楽器の第一人者であるシギスヴァルト・クイケンとの研究に基づいて、ロシア出身のヴァイオリニスト兼楽器製造家のドミトリー・ヴァディアロフが製作した楽器を演奏したもの。
 冒頭の最初の写真はこの楽器の試作の段階から関わり、完成後にさっそく入手してバッハがこの楽器のために作曲した組曲全曲を録音した寺神戸亮と、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラだ。
 ヴィオラ・ポンポーザとヴィオロンチェロ・ダ・スパッラとは名前こそ違え、ほぼ同じ楽器と考えられ、大き目のヴィオラで、肩にかけて演奏する楽器だ。
 もう一つヴィオロンチェロ・ピッコロと呼ばれる楽器があり、これはその名の通り小さなチェロだが、現在のチェロとは異なり、高音用に5弦が追加されている。
 バッハの無伴奏チェロ組曲の第6番は5弦の楽器で演奏するように指定されていて、オランダのチェリスト、アンナー・ビルスマは1979年と1992年との2度の録音時にはいずれも第6番の組曲を5弦のヴィオロンチェロ・ピッコロを使用している。
 本来5弦の楽器で演奏するように書かれた曲を4弦の楽器で演奏するのは技術的に困難を伴い、そうでなくともバッハの曲の演奏には高度な演奏技術を要求され、とりわけ第6番は6つの組曲の中では最も演奏が困難な曲なのです。
 もちろん現代の演奏家であれば、4弦のチェロでも弾きこなせるのは当然だが、寺神戸亮によると、膝に抱えるチェロと比べて、肩にかけて演奏するヴィオロンチェロ・ダ・スパッラの方が運指が遥かに自然で楽になり、その分、本来の舞曲集からなる組曲のそれぞれの性格やリズムの演奏に専念できるとのこと。
 本来、ヴァイオリニストの寺神戸亮が敢えてチェロ(ヴィオラ・ポンポーザ)の曲に挑戦して、ヴァイオリンと同じ構えで演奏できる楽器に出会ったからこその感想ではあるが、なるほどと思う。
 ちなみに,寺神戸亮は、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラをチェロと同じ音程で調律し、第6番はバッハの指定通り、第5弦を追加して演奏している。 
 すなわち、バッハが実際に作曲し、演奏した曲の本来の響きをこのCDにて聞くことができる。

今井信子のヴィオラによる演奏
 
 
バッハの無伴奏チェロ組曲は古今のチェロ奏者が必ず演奏する曲とあれば、冒頭に述べた通り、無数といえるほどのCDがあり、実際手元に10種余りの、古今の名手のCDがあるのだが、日頃最もよく聞いているのが、実はチェロではなく、今井信子がヴィオラで演奏しているもので、この20年来折に触れ聴いている。
 何よりもチェロよりは1オクターヴ高いヴィオラの音程が何とも心地よい。 
ヴァイオリンほど甲高くはなく、チェロほどずっしりと重くはないヴィオラの音域がしっくりと心にしみてくるというのが一番の理由。
 もちろん、現代屈指のヴィオラ奏者の今井信子のバッハの解釈と素晴らしいリズム感による演奏が優れていることは言うまでもない。
 プレリュードに始まり、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという伝統的な舞曲からなる伝統的な室内ソナタに、メヌエット、ブーレ、ジーグ等を取り交ぜて組曲ごとにイタリア様式、フランス様式の性格が緩急自在に見事に弾き分けられ、陶然とさせられる。
 すべての手持ちのCDの中でも最も心に響く演奏と愛聴しているものだ。
 この演奏の10年後に出た前述の寺神戸亮のCDにて、この組曲が実はチェロではなく、バッハが自ら演奏したヴィオラ・ポンポーザのために作曲されたものと知り、ヴィオラに近い楽器であればこそ、この音色が心に沁みて来たのには訳があったのだと思い当たった次第。
 一方、寺神戸亮のヴィオロンチェロ・ダ・スパッラは1オクターヴ低いチェロの音程での調律なので、演奏自体は申し分のないものなのだが、やはり音が重く、今井信子のヴィオラの音の響きが好ましい。

ヘンク・ファン・トゥヴィラートのバリトン・サクソフォーンによる演奏
 
 4弦と5弦の弦楽器のための曲を管楽器1本だけで演奏すると一体どんなことになるのかと、ネットのカタログだけを見て好奇心から入手したのがこのCD。
 しかし、聴こえてきたのは紛れもないバッハの音楽であり、深々と心地よく響くバリトン・サクソフォーンの音色がひたひたと心に沁み込んでくるのでありました。
 たった1本の管楽器による演奏故,全ての音符が演奏しきれてはいないはずだが、精緻な幾何学文様が積み上げられて巨大なカテードラルが構築されてゆくが如きバッハの音楽には、宇宙を支配する何か巨大な存在をを目の当たりに見ているような感興を覚えずにはいられない。
 と、これはバッハの音楽の神髄を思い知らせられるような名演奏に巡り合ったというCDでもあります。

 と、ここに挙げた
3枚のCDは、いずれもチェロではない楽器による、しかし心に残るバッハの無伴奏チェロ組曲の名演奏なのです。
 
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