美しきもの見し人は

村上春樹のシューマン 謝肉祭 (Carnaval) OP.9


   
2020年出版  ルービンシュタイン 1962年 録音  ミケランジェリ 1973 年録音 イェルク・デームス 1960年代末録音


       
 ホロヴィッツ 1986年演奏会  ホロヴィッツは”謝肉祭”
をレコードに残していない
キーシン12歳デビュー時   初来日のころ
 
 古今東西の様々な楽器の中で、ピアノ程多彩な音色と表現力を持つ楽器はない。
クラヴィコードから、ハープシコード、さらにピアノフォルテへと発展し、改良に改良を重ねて、精密で複雑な機構へと発展し、広大な音域と多彩な音色を10本の指で自由に奏でることが可能な楽器となった。
 したがって、音楽史の中で、、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、ラヴェル等々の多彩なピアノ曲がもっとも重要なレパートリーとして、こんにち、頻繁に演奏され、録音されている。
 こうした数多のピアノ曲の中で、最もピアニスティックな曲の作曲者は誰かと言えば、ロベルト・シューマン(Robert Schumann : 1810 - 1856) を真っ先にあげるべきだろうと、かねがね思っていた ;

 交響的練習曲、クライスレリアーナ、子供の情景 、幻想曲、謝肉祭等々、ピアノという楽器の特質が余すことなく発揮された傑作が綺羅星のごとく並んでいて、感嘆するのみ。
 普段ロマン派の音楽を殆ど聴くことがないが、ロマン派の先駆者だったシューマンの、とりわけピアノ曲だけはしばし聴き入ってしまうのは、ピアノという楽器の可能性を徹底的に追及したシューマンの天才の賜物のせいだろう。  
 今回シューマンの謝肉祭を取り上げたのは、村上春樹の最近の短編集 ”一人称単数” に収められている8つの短編の中にシューマンの ”謝肉祭” が取り上げられていたからだ。
 かつてシューベルトのピアノソナタ第17番ニ長調 D850 について、ステレオ・サウンド誌の連載の中で、この一般には滅多に演奏も録音もされることの少ない不人気な曲に傾倒して25年余りの間に15枚ものレコードを入手した顛末が書かれていた。
 さらに2002年に発表された ”海辺のカフカ” の中で延々とシューベルト論を述べていた。
新たに発表された短編 ”謝肉祭 (Carnaval) ” は、まさに謝肉祭論を展開するために短編として発表されたようなものだ。 そして、この短編はすこぶる面白く、他に類を見ない卓越した ”謝肉祭論” に仕上げられている ; 
     シューマンの ”謝肉祭” とは次のような構成からなる曲集だ ; (仮面をつけて行進する登場人物達)
 1   Préambule     Pierrot   3   Arlequin     4  Valse Noble    5     Eusebius  
   前口上       ピエロ      アルルルカン
(イタリアの仮面劇の道化
    優雅な円舞曲        オイゼビウス
 (詩人としてのシューマンの分身-1) 
                             
 6  Florestan     7  Coquette     8  Replique    9   Papillons     10   A.S.C.H.S.H.A.   踊る文字 
   フロレスタン
  (分身-2)
    コケット (尻軽女)       応答        蝶々     Lettre dansantes 
                             
 11  Chiarina     12  Chopin     13   Estrelle      14  Reconnaissance   15  Pantaron et Colombine   
   キアリーナ
(クララのイタリア読み名) 
    ショパン         エストレッラ
 (シューマンの片思い人 )  
  再会     道化のパンタロンとコロンビーヌ  
                           
 16  Valse Allemande    17   Paganini     18  Aveu    19  Promenade     20  Pause   
   ドイツ風舞曲       パガニーニ       告白     散歩       休息   
                             
 21  Marches des Davids-bündler contre les Philistins                      
   俗物たちに対抗するダヴィッド 同盟員の行進                
  仮面をつけた様々な人物をイメージして目くるめくようなピアノ曲が展開される曲集ですが、村上春樹はこの曲を語る切り口として 、何と ”絶世の醜女” を主人公として登場させた ;
 僕が演奏会の帰途に友達の友達として紹介された10歳ほど年下の40代の彼女は、僕が記憶している中でももっとも醜い女性だった、・・・・・・・
 だが、彼女は話が上手で話題も多岐に亘っている。 頭の回転も速く、音楽の趣味も良い、どころか演奏の出来や演奏者の体調までも的確に指摘する程の鋭い感性の持ち主だ。
 服装の好みが良く、身に着けているジュエリーも実に完璧、と実に魅力的な女性なのだ。
 代官山の緑に囲まれた瀟洒な3LDKのマンションに暮らし、アキュフェーズのハイエンドのプリメインアンプにリンの大型のスピーカーとCDプレーヤーまで揃えている、・・・・・ となると、まるで村上春樹そのものなのだが。
 意気投合した二人は音楽の話題の果てに、もしも無人島にたった1枚持ってゆくピアノ曲は何だろうか ? との問いに、シューベルトのいくつかのピアノソナタを候補に挙げつつ、結局シューマンのピアノ曲の中でも万華鏡のごとく美しく、また人智をまたぎ超して支離滅裂なピアノ曲でもある ”謝肉祭” こそがそれであるという結論で一致する。
 数々のカルナヴァルの演奏会に出かけ、42枚のLPやCDを聴いた結果、最高の演奏は誰かとの問いに、彼女はアルトゥーロ・ヴェネデッティ・ミケランジェリを挙げ、僕はアルトゥール・ルービンシュタインとした。
 そして、この曲を何故か敬遠しているホロヴィッツやリヒテル同様、マルタ・アルゲリッチが何時の日かこの曲を演奏することを切望している、との点でも一致した。 そして彼女は語る ;
 「シューマンはもともと分裂的な傾向があり、その上、若い頃に罹った梅毒により、頭がだんだん正常でなくなった ; 謝肉祭は初期の作品だから、彼の内なる妄想である悪霊たちははっきりとは顔を出してはいない。
 が、至る所に陽気な仮面をかぶったものたちが溢れている。 
でもそれはただの単純に陽気な、カルナヴァルじゃない。
 この音楽には、やがて彼の中で魑魅魍魎になってゆくはずのものが次々に顔を見せているの。
ちょっと顔見せみたいに、みんな楽し気な仮面をかぶってね。
 あたりには不吉な春先の風が吹いている。 そしてそこでは血の滴るような肉が全員に振る舞われる。
謝肉祭、これはまさにそういう種類の音楽なの
 
  だから演奏者は登場人物たちの、仮面とその下にある顔の双方を、音楽的に表現しなくてはならない  ---- そういうことかな と、僕は尋ねた。
彼女は肯いた。「 そう、そういうこと、まさにそういうこと。 そのような表現が出来なくては、この曲を演奏する意味はないと私は考えている。
 この作品はある意味では遊びの極致にある音楽だけど、言わせてもらえば、遊びの中にこそ、精神の底に生息する邪気ある者たちが顔を覗かせるのよ。 彼らは暗闇の中から、遊びの音色に誘い出されてくる。  
 彼女はしばらく沈黙に浸っていた。 それから話を続けた。
「 私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。 まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きてゆくことはとてもできないから。
 悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊素顔がある、どちらか一方だけというこ とはあり得ない。 それが私たちなのよ。 それがカルナヴァル。
 そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることが出来た --- 仮面と素顔の両方を。 なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。 仮面と素顔との息詰まる狭間に生きた人だったから。」
 彼女は本当は醜い仮面と美しい素顔、美しい仮面と醜い素顔、と言いたかったのかもしれない。
物語の最後に、彼女のもう一つの仮面の下の顔が現れて、思わず、はあああー--とさせられのだが、シューマンの ”謝肉祭” を主題にした短編小説の締めくくりに相応しい鮮やかな手腕だ。
 だが、前述の謝肉祭論こそは、村上春樹が長年シューマンを聴いて来て(何しろ数々の演奏会に加えて42枚ものレコードとCDを聴いているのだ)圧巻とも言えるシューマン論なのだ。

 ここで最良の演奏として挙げられているルービンシュタインの精妙を極めた演奏と、とミケランジェリの造形のしっかりした、透明度の高い演奏こそは、紛れもなくこの曲の演奏の白眉ともいえる水準のものだ。
 そしてマルタ・アルゲリッチが何時の日かこの曲を録音することを切望しているというさりげない一行は、同時に優れたシューマン論になっている。
 何故なら、現代の数多のピアニストの中でシューマンを弾かせたら、アルゲリッチこそはルービンシュタインとミケランジェリに匹敵する、あるいは彼らを凌ぐ程の存在である、とは誰もが認め、アルゲリッチの ”謝肉祭” を聴かずしてこの作品を語ることは出来ないと思っているからなのだ。
 悔しいことに、シューマンの目ぼしい他の曲は殆ど演奏し、録音しているアルゲリッチの膨大なディスコグラフィーから何故か ”謝肉祭” だけが抜け落ちている。
 リヒテル、ホロヴィッツ、アルゲリッチだけではない、さらにクリフォード・カーゾン、カットナー・ソロモン、イーヴ・ナット、ヴラド・ペルルミュテール、ミシェエル・ダルベルト、エリック・エドシェック、さらにフリードリッヒ・グルダまでもが、手持ちのピアニストの全集から、他のシューマンのピアノ曲は入っているのに、何故か、”謝肉祭”が抜け落ちている。
  冒頭のジャケットの他に、謝肉祭の演奏が入っているのはジュリアス・カッチェンの全集のみだ
 うっかりとか、たまたま演奏しなかった、のではなく、意図的にこの曲を避けているとしか思えない。
弾いては見たものの、どうにも人前で演奏したり、録音する気にはならない、という特異な曲なのだろう。 
  個人的には、イェルク・デームスの13枚組のシューマンのピアノ曲集を時おり聴いている。  
  
必ずしも超一流のピアニストと評されているわけではないが、シューマンのピアノ曲全集が意外と少ない中で、イェルク・デームスの演奏は全編が高い水準にあり、次から次へと聞き惚れてしまう。
 
 村上春樹の短編の中ではホロヴィッツがこの曲を敬遠しているとある。
 実際、膨大なカタログを探してもホロヴィッツのシューマンのカルナヴァルの録音は見当たりません。 
ところが YouTube にホロヴィッツが1983年に来日した時のTV放送にてこの謝肉祭を演奏している映像が見られる ; ホロヴィッツ (1903 - 1989) の最晩年の演奏会で、音程を外したり等々衰えが目立ったと話題になったものでした。
 演奏を始める前に、大きなハンカチで入念に手を拭い、さらにもみ手を繰り返してからおもむろに始まった謝肉祭の演奏は、しかし往年の最盛期を偲ばせる、スケールの大きな、目くるめくような表情豊かな見事なもので、もし、村上春樹がこの演奏を聴いていたなら、ルービンシュタインとミケランジェリの演奏に加えて、ホロヴィッツの名が必ず付く加えられたことは間違いない。
 さらに、同じ YouTube にエフゲニー・キ-シンの2000年に、ドイツのハイデルベルクに近いシュヴェツィンゲン城で毎年夏に開催される音楽祭でのライヴ映像が見られる。
 エフゲニー・キーシン(1971~)が14歳で西ヨーロッパにデビューした頃 (既出ジャケットの写真 : これを見て女の子かと思った)、既に巨匠のようなスケールの大きな、堂々とした演奏ぶりには世界が驚嘆したものだが、その後も着々とピアニストとして大成し、今や50歳を過ぎて、20-21世紀の屈指のピアニストへの道を歩んでいる。
 YouTube で見られる謝肉祭の演奏は、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ミケランジェリの歴史的な名演奏と比肩できる比類のないもので、30歳でこの境地に達しているのは驚異的としか言葉がない。


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