コンチェルト ヴォカーレ
(Concerto Vocale)
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Heinrich Schütz (1585 - 1672) | Claudio Monteverdi (1567 - 1643) Benedetto Ferrari Della Tiorba (1600 - 1681) | Marc Antoine Charpentier(1635 - 1704) |
”コンチェルト・ヴォカーレ(Concerto Vocale)” はベルギーのヘント出身のカウンター・テノールのルネ・ヤーコプスが1977年にアムステルダムで設立した小編成の室内歌曲合奏団だ。
メンバーは曲によって異なるが、ルネ・ヤーコプスを中心に男声、女声、伴奏のハープシコード、大型のリュートのテオルボ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどにてルネサンスからバロックに至るイタリア、フランス、ドイツ、イギリス等、ヨーロッパ各国の主にマドリガーレ等の世俗歌曲を取り上げて演奏し、活動は21世紀初めまで続けられた。
冒頭のジャケットの写真は、コンチェルト・ヴォカーレの残した膨大なレコードの一部に過ぎないが、長年忘れられていた、ルネサンス・バロック時代の世俗的なマドリガーレや宗教作品を現代に蘇らせた記念碑的な業績です。
ルネサンスの時代、笛やハープ、弦楽器等は未だ発展途上にあり、伴奏楽器に過ぎなかった。 一方、声楽曲は技術的には既に頂点に達していた。
そして声楽曲を至高の高みにまで完成させたのがクラウディオ・モンテヴェルディだった。
北イタリアのクレモナ出身のモンテヴェルディ (1567 ~ 1643) は1590年にマントヴァ公国に歌手兼ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として雇われ、1602年には宮廷楽長となったが1612年にゴンザーガ公爵死去により解雇され、翌年ヴェネツィア、サンマルコ寺院の楽長に就任した。
以後全盛期のヴェネツィア共和国にて、対位法技法を駆使した多彩なポリフォニー(複数の独立した声部からなる音楽) とマドリガーレに付けた伴奏楽器に因る劇的な表現力は必然的にオペラという新しい分野を創造する道へとつながり、”オルフェオ”、”ウリセの帰還”、“ポッペーアの戴冠” 等、今日聴いても新鮮で魅力溢れる音楽劇が残された。
と、音楽史的な説明は退屈なだけですが、20世紀半ばになって、イ・ムディチによる、ヴィヴァルディの”四季”が人気を博するようになると、続いて20世紀後半には、忘れられていたルネサンスからバロック時代の作曲家たちが続々と復活し、ついにルネサンスからバロックへの変換転に位置する大作曲家、モンテヴェルディが復活した。
演奏会や録音を通して、作品を直に聴くことが出来るようになると、モンテヴェルディの作品が如何に新鮮で瑞々しい美しさに溢れているかを実感出来るようになった。1597年頃のモンテヴェルディ
と考えられる音楽家の肖像画
たった半世紀昔のことに過ぎないが、日本ではクラシック音楽といえばベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキー等古典派からロマン派の音楽が主流だった。
バッハはもちろんのこと、モーツァルトでさえも”楽譜が多すぎる”と軽んじられていた時代だ。
しかしヨーロッパでは、すでに古典派やロマン派以前、中世からルネサンス、バロックに至るヨーロッパ各地に残された膨大な音楽作品の発掘と再生の試みが始まっていて、レコード各社から古楽シリーズが始まっていた。
その代表的な例が、イ・ムジチ合奏団が演奏し、ベスト・セラーとなったヴィヴァルディの四季だった。
吉田秀和は、デビュー当時のグレン・グールドの天才を一聴にして見抜き、評価した、日本では数少ない音楽の真髄を理解し、見事な文章で表現することができた数少ない批評家だった。
しかしながら、当時日本で評判となったヴィヴァルディを、取るに足らないと作曲家と批判した。
残念ながら、その批判は半ば当たっている。
半ばというのは、当時話題になっていたイ・ムジチ等の演奏スタイルは本来のバロックとは全く異なる、硬直した退屈極まりないのものだったからに他ならない。
あんなバック・グラウンド・ミュージックのような演奏を聴けば、取るに足らないと批判したのは当然。
その後の研究が進んで、レイモンド・レッパードやネヴィル・マリナー、ニコラス・アーノンクール達による、本来のバロック(いびつな真珠)に相応しい活き活きとした闊達な演奏、さらにジョヴァンニ・アレッサンドリーニが率いるイル・ジャルディーニ・アルモニコの過激な演奏へと、時代は大きく変化していたが、その時は吉田秀和は残念ながら、批評の一線から引退してしまっていた。
今も健在なら、アレッサンドリーニの演奏を絶賛したに違いない。
ルネ・ヤーコプスが音楽教育を受けたベルギーやオランダは、ルネサンスやバロック音楽の復活を担った土地であり、数多くの演奏家が最先端の音楽研究の成果を演奏や録音を通じて世界に発信した土地だった。
カウンター・テノールという、女性のソプラノやアルトの音域で歌うルネ・ヤーコプスにとっては、ルネサンスからバロックにかけての膨大なレパートリーがある声楽曲を取り上げる重要な動機となったに違いない。
ヨーロッパでも”この歌の時代”には女性の地位は軽んじられていて、教会で女性が歌うことは禁じられていたのだ。
ついでながら、シェークスピアの芝居も、かつては女の役は日本の歌舞伎同様、女形が演じていた。
必然的に、女声のパートはボーイソプラノが担うことになったが、声量や歌唱力に問題があり、必然的に去勢された”カストラート”と呼ばれる歌手が求められた。
映画にもなった ”カストラート” ではイタリアの伝説のカストラートであったナポリ生まれの歌手 ” ファルネッリ (1705 - 1782 ” の驚異的な歌唱力と声量、音域の広さを知ることができるが、もちろんこの歌声はコンピューターにて作られたものだ。
以後、30年余り、この曲は座右の愛聴版として常に手元に置いている。
さらに、このCDを機に、以後次々と録音されるヨーロッパ各国のルネサンスやバロック音楽の膨大な、そして豊穣な音楽の森に分け入ることが出来たのはこのCDのおかげだ。
とりわけ冒頭の”西風が戻り : Zefiro torna ” は数あるモンテヴェルディのマドリガーレの中で、名曲中の名曲であるから、現在は Youtube にて楽器や声楽編成の異なる様々な演奏を映像付きで楽しむことができる。
Zefiro とはギリシア語でゼフィルス、西風のこと。
ヨーロッパでは暗く長い冬が終わって春を告げる風として、特別の意味合いを籠めて人々が口にする言葉だ。
このCDにはモンテヴェルディだけでなく、その弟子だったベネデット・フェッラーリ・デラ・テオルバ (1660- 1681)の曲も収められている。
長年モンテヴェルディの作品とされていたが、研究が進んで、実は弟子の作品であったと判明したもの。
音楽に限らず、絵画などの分野でも、よくあることだが、優れた師匠に才能を認められ、その下で長年研鑽を積んだ人材であれば、師匠に劣らぬ作品を生み出すことは当然のこと。
絵画や彫刻、料理等々、文化や技術、生活スタイルの広範な分野で先行したイタリアがヨーロッパ各国のお手本となったが、音楽の分野もその代表的な例だ。
冒頭のモンテヴェルディと並ぶドイツの作曲家、ハインリッヒ・シュッツのCDはイタリアのマドリガーレの様式で作曲されたもの。
シャルパンティエは中世のグレゴリオ聖歌の様式で、旧約聖書の”エレミアの哀歌”を当時のフランスにて盛んだった宗教音楽のスタイルに作曲したもの。
等々、1970年代末以降、ヨーロッパでは、忘れられていた中世からルネサンス、バロックの膨大な作品が発掘され、研究され、昔の様式に基づいた演奏と録音とが怒涛のように登場し始めていた。
ルネ・ヤーコプスが率いるコンチェルト・ヴォカーレは、こうした流れの一端を担って先駆的な役割を果たした。