イザベル・ファウストのヴァイオリン演奏
( Isabelle Faust)



     
NHKで放送された無伴奏ヴァイオリン曲集  2016年1月 バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲集 
 2009 & 2011年録音
ヴィルスマイヤー と ピセンデル、
ビーバーの無伴奏ヴァイオリン曲集


 2,3年昔のことだが、” 音楽の友 ” 誌の最も聴きたい演奏家という読者アンケートで、第1位にヴァイオリン奏者のイサベル・ファウストが挙げられていた。
 同じヴァイオリニストのヒラリー・ハーンでもなく、ピアノのエフゲニー・キーシンでもなかったので意外に思った記憶がある。
 実は名前こそ聞いてはいたが、実際の演奏を聴いたことがなかったので、一体どんな演奏をするのだろうかと気になっていたところ、NHKの朝のクラシック倶楽部 ( なんと、朝の5時からの放送 !! )にてバロックとモダーン・ヴァイオリン(とは言ってもストラディヴァリのスリーピング・ビューティなのだが) の二つの異なる楽器を弾いての演奏会の模様が放送された。

 放送されたのは、バロック・ヴァイオリンによるヴィルスマイヤーのソナタ第5番と、ビーバーの ”ロザリオのソナタ ” の最終曲、パッサカリアと、モダーン・ヴァイオリンでのバルトークのヴァイオリン・ソナタ第1番、といずれも無伴奏の高度な技術を凝らした難曲ばかりだった。
 実際の演奏会では、おそらく他にもバッハの無伴奏ソナタ等も演奏されたと思うが、時間の関係で3曲のみが放送されたのだろう。

 最初のヴィルスマイヤー ( Johann Joseph Vilsmaÿr 1663-1722 ) を聴くのはこれが初めて。 
バッハとほぼ同時代の作曲家で、1715年に出版された6曲の無伴奏ヴァイオリン・ソナタと、5楽章からなるヴァイオリン・ソナタしか残されていない作曲家だ。
 これを機にCDを探したところ、イギリスの奏者、ヴォーン・ジョーンズ ( Vaughan Jones ) による、初版から300年を記念して2015年に世界で初めて録音された全曲盤を入手した。 
 殆ど無名の演奏者だが、しかし世界初の全曲盤を出すほどのヴァイオリニストの演奏は、今を時めくイザベル・ファウストと比較して、遜色のない、美しい音色と素晴らしい技術と音楽性とを堪能した。
 ヴァイオリンは古楽器ではなく2007年製の新しいもの。

 イザベル・ファウストが演奏した、もう一つのビーバーの曲は、近年数多くの演奏がレコードで発売されるようになった ” ロザリオのソナタ ” の最終曲、パッサカリアだ。 
 ビーバー ( Heinrich Ignaz Franz von Biber 1644 - 1704 )はバッハ ( 1685 - 1750 ) より少し前の作曲家であり、稀代の名ヴァイオリン奏者として知られる。 
 かつては ( ほんの30年ほど昔のことだが ) 殆ど演奏されることも、従ってレコードさえもなかったが、現在ではロザリオのソナタだけでも10種以上が簡単に見つかる。 
 とりわけパッサカリアは、バッハのシャコンヌに匹敵する曲で、今日では独立して演奏会等でしばしば演奏される名曲の一つだ。

シャコンヌとパッサカリア

 シャコンヌ ( Chaconne ) とはフランス語の呼び名、 ドイツ語とイタリア語ではチャコーナ (Ciaccona ) だが、その起源はペルー起源の熱情的な踊りで男女が相手を誘う卑猥な仕草を伴う踊りだったとのこと。 
 それがスペインにてチャコーナ ( Chaconna ) となり、ドイツやフランスにて、オスティナート・バス(固執低音)と呼ばれる、連続する低音の旋律の上に様々な変奏曲が繰り返される壮大な変奏曲の形をとったものだ。

 パッサカリアも同じく中南米起源の舞曲で、スペイン語の pasear calle (通りを散歩する)の意味のパサカリエ (Passacalle) からイタリア語の Passacaglia、フランス語の Passacaille, ドイツ語の Passacaliaになったもの。
 スペインでは歌でも踊りでもない、楽器による短い前奏や間奏曲、即興演奏を意味するものになったが、後にフランスやドイツに入って、シャコンヌと同様、壮大な変奏曲へと変貌したものになった。
 呼び名こそ違うが音楽の形式としてはシャコンヌとほぼ同じものだ。

 番組の中で語っているが、イザベル・ファウストが初めてバルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを弾いたのは11歳の時だったとのこと。
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータに比肩する名曲であり、難曲でもあるこの曲をその年齢で演奏したというのは大変なことだ。 
 何しろユーディ・メニューインに捧げられたこの曲の楽譜を初めて見て冷や汗が流れた、と彼に言わしめたほどの難曲なのだ。
 イザベル・ファウストがバルトークを弾いたのは、当時ハンガリー出身のヴァイオリニストに師事していた事が幸いしているとは彼女が語っている。
ハンガリー音楽と言えば、元は北インド出身のジプシー(現在ではロマと呼ばれている)がもたらした独特のリズムやテンポの変化の激しい、高度の演奏技術を必要とする曲で知られ、バルトー クの音楽を理解するうえで欠かせないものだ。 
 ハンガリー出身のヴァイオリニストにハンガリー音楽の神髄を徹底的に仕込まれたファウストがバルトークを得意とするのは当然だが、実は、その経験はバッハ演奏にも大いに貢献している。
 この放送を聴いて直ちに入手した彼女のバッハ演奏には、ハンガリーの、即ちジプシー音楽のリズムやテンポが何気なく取り込まれていることに気付かされる。
 バッハにジプシー音楽とは意外な様だが、調べてみると、フランスから追放されたジプシー一座がベルリンに流れ着いて、当時姉妹都市だったケーテンの宮廷の楽長だったバッハがジプシー音楽の新しい舞曲を取り入れたとのこと。

       

 イザベル・ファウストのバッハ演奏

 バルトークの難曲を11歳で演奏し、1987年のレオポルド・モーツァルトと、1993年のパガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールの二つのコンクールで優勝したほどの演奏家がどのようにバッハを弾くのか、大いに期待を抱いて聴き始めたが、出だしから意表を突かれる演奏だった。

 それは、ひっそりと静まり返った深い森の奥から微かに音楽が響いてくるといった、きわめて内省的な風情を濃厚に漂わせる演奏なのだ。
が、それはあたかも初山滋の描く流麗にして繊細な線と色彩とで描かれた図形が、音楽に合わせて軽やかに踊っているかのような幻想的な感興を惹き起こす不思議な体験だった。
 バッハの無伴奏ヴァイオリン組曲はソナタがいずれも第2楽章に長大なフーガを伴う、緩―急ー緩―急の4楽章からなる教会ソナタの形式と、古典的な舞曲の組み合わせによるパルティータからなっている。
 パルティータはいずれもヨーロッパや南米起源の舞曲で構成されているから、リズム感に溢れた演奏が展開されるのは当然といえば当然のことなのだが、イザベル・ファウスト程、舞曲集の性格を前面に出した演奏は稀有のものではないだろうか ?
 4本の弦から音楽が抽象的な線となって放たれ、あたかも小鳥や魚や妖精の姿となって軽やかに跳んだり回転したり、その動きごとに色や姿が変わり、無数の光を放つといった、精妙極まりない音と線と色の空間が出現するのだ。
 最終楽章に長大なシャコンヌを伴う第2番のパルティータでも、ヒラリー・ハーンや他の演奏者のように、シャコンヌに向けて次第に白熱して行くといった構成を敢えて取らずに、しかし各楽章の小節のメロディーとリズムとを多彩な色彩感にて丹念に弾き込み、聴き終わった後にも深々とした余韻が残されるといった個性的な演奏が展開される。
 そして例えば無伴奏パルティータの第3番では、全編が紛れもなくバッハの音楽でありながら、あたかもジプシー・ヴァイオリン曲のような即興的なリズムとメロディーとに溢れている。
 幾何学的な秩序からなるバッハの音楽がその解釈に無限の自由と可能性を持つことは十分承知していたが、イザベル・ファウストの演奏は、グレン・グールドがゴールトベルク変奏曲で見せた斬新な解釈でバッハの鍵盤音楽の本来の魅力を引き出したように、ヴァイオリンによる新しい解釈の可能性を提示して見せたといえるだろう。
 ヒラリー・ハーンによる清新な演奏と並んで、イザベル・ファウストの演奏は、今後のバッハの無伴奏ヴァイオリン曲の解釈の一つの指針となる事だろう。
 イサベル・ファウストはストラディヴァリのスリーピングビューティーを使い、バッハのオリジナル楽譜での演奏を2009年にシャコンヌを含むパルティータ第2番と第3番、ソナタ第3番を録音した。
 このレコードは発売後直ちに評判となり、フランスでは ”ディアパゾン・ドール(金の音叉)賞” に輝き、ドイツの Fono Forum 誌やイギリスの Gramophone 誌等々、有力な音楽メディアから画期的な演奏として絶賛された。
 2011年の8月と9月に残りのソナタ第1番と第2番、パルティータの第1番を録音して全曲を完成させた。

 
           


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