グレン・グールド ロシアの旅
(Glenn Gould The Russian Journey)

       
バッハ ゴルトベルク変奏曲
 1955年モノーラル録音 
グレングールド ロシアの旅 24歳の頃のグレン・グールド  ベルク、クシェネック、シェーンベルク作品集
1957-1958
 これはグレン・グールドが1957年に初めての海外での演奏旅行先としてロシアを訪れた時のドキュメンタリー映画だ。
 といっても実際に制作されたのは、グールド生誕70年、没後20年を記念して、2002年にウクライナ出身の監督、ヨシフ・フェイギンベルクによってカナダで制作された。
 グールドの訪問後、半世紀近く後に、グールドが演奏会や講演を行った会場を訪れ、当時の演奏を聴いた人々へのインタービューを通じて、ロシアの音楽界のみならず、芸術界や社会が受けた衝撃が未だに深い感動と称賛をもって生き生きと語られている ;

 ”グレンは私の永遠のアイドルだ。彼と張り合うなんて到底できない”      : アシュケナージ
 ”神に選ばれた人だ。トロントから出た天才は音楽の世界を変えた”       : ロストロポーヴィチ
 ”彼と同じようにバッハを弾ける。だがそのためには猛烈な練習が必要だ”   : リヒテル
 ”火星から来た異星人のようだ” ”魔法の世界から現れたピアノの詩人さん” : 音楽愛好家

等々、名だたる演奏家や、ロシアの音楽界の専門家、一般の音楽愛好家たちのグールドに寄せる言葉と思いが、その影響がどれ程のものであったかを伝えてくれる。

 後にステージでのコンサートを放棄して放送とスタジオ録音による音楽活動に専念したグールドだが、1957年は24歳のグールドがカナダとアメリカで新進ピアニストとしてデビューしたばかりであり、ロシアを皮切りにヨーロッパ各地での演奏会に、彼自身大いなる抱負を抱いて出かけたことだろう。

 最初の訪問国、ロシア、当時は共産党独裁体制下のソヴィエト連邦であり、第2次大戦後の東西対決の最中、西側からの最初の演奏家として、他の誰でもない、全く無名のピアニストであったグレン・グールドが選ばれた事実は、まさに天の配剤としか言いようのない出来事であったのだと、いまさらながら感慨に耽ってしまう。

 当時西側で活躍していた、バックハウス、ルービンシュタイン、ゼルキン、ケンプ、ミケランジェリ等、錚々たる巨匠、あるいは、ブレンデル、グルダ等、グールドと同世代の名ピアニストが訪れて素晴らしい演奏を披露したとしても、それはただの演奏会として終わっただけに違いない。
 彼らに匹敵するピアニストならロシアにいくらでもいたからだ。

 だが、グールドの場合は全く異なる次元の出来事となった。

 古今東西の歴史において、一人の無名の演奏家の訪問がこれ程の反響を呼んだことはかつてなかったと言えるだろう。
 もちろんグレン・グールドにとっても、生涯で最も幸福で晴れやかな出来事であった。

 が、ロシアにとって、単にピアニストだけに止まらず、全ての芸術家や一般の音楽愛好家にとっても、グレン・グールドのロシアへの訪問の旅は歴史に残るほどの大事件となった。

 1957年5月7日にモスクワ音楽院大ホールでの演奏会、第一幕の聴衆はほんの僅かだった。
全部で1000人程度の収容力のこのホールの2階席は殆ど空席。1階も半分も埋まっていなかった。
 ロシアでは無名のカナダ人の演奏家、しかも演奏曲目が前半はバッハ、後半はベートーベンとベルクとあっては、興味を持つ聴衆が僅かであったとしも止むを得ない。
 共産主義体制下のソヴィエトではバッハは宗教音楽の作曲家としてほぼ演奏禁止であり、ベルク、クシュニク、ウェーベルン、シェーンベルク等ウィーン学派の作曲家の音楽も、退廃したブルジョワの音楽として抹殺されていたからだ。
 だが、敢えてその演奏会に出かけた僅かな聴衆たちは只者ではなかった ;
グールドの演奏の水際立った水準の高さ、そして目の覚めるような斬新なバッハ解釈の凄さを即座に理解し、前半が終わるや否や、知っている限りの知人に演奏会に来るように呼び掛けたのだ。
 実はロシアではオペラや、芝居、演奏会には1時間近い幕間があり、サロンではシャンパンやキャビアなど、巷では決して手に入らない高級品が格安で提供される、社交の場となっている。
 これは帝政時代の貴族たちの慣習が革命後もそっくり受け継がれているのだが、そこに共産主義革命の本質がいみじくも姿を見せている。
 人民のための革命という名目は、成し遂げてみれば、実は共産主義者たちが、貴族階級を追放して、入れ替わりに自らが支配階級に成り代わっただけというのがその実態であり、中国や北朝鮮を見ればその本質は明らかだ。
 ソ連では実は芸術家たちも、国家の威信を高めるための特権階級と位置付けられ、一般では手に入りにくい演奏会の切符を容易に入手できる。だが、その代償として、演奏曲目や内容は厳しく制限、監視されてもいた。

 この演奏会の聴衆は、したがって、後から呼ばれて来た人々も含め、大半がモスクワ音楽院の教授、指揮者、音楽家、作曲家、劇場監督、映画監督等の特権階級に属する人々だった。
 エリートではあったが,それゆえ政府による締め付けや干渉にはうんざりしていたのだ。
 当時の共産主義体制の全盛時代に、むしろその体制に内在する矛盾には、心ある一般人も言いようのない閉塞感に覆われていたのは間違いない。
 そうした中に、グレン・グールドが、禁断のバッハとウィーン学派の音楽とを引っ提げて登場したのだった。

 押しかけた聴衆で超満員となった第2幕はアンコールに次ぐアンコールで深夜まで続く大成功となり、以後モスクワでの演奏会や講演は定員の倍近い大盛況となった。
 面白いのは、モスクワではそれほどの成功であったにもかかわらず、次のレニングラードでの最初の演奏会の前半は不入りであったことだ。
 レニングラード人にはモスクワでの評判など信用ならないという気質があるようだ。
 幕を開けてみれば、モスクワ同様、後半は後から押し掛けた聴衆で階段から舞台まで埋め尽くされるほどの大盛況となったのはもちろんだ。
 ソ連で最後となった5月19日はレニングラードの小さなグラズーノフ・ホールでの講演・演奏会は、主に抹殺されていたウィーン学派の音楽についての講演だったため、政府の干渉で小さなホールでならとの条件付きで開催されたもの。
 バロック時代、オランダのスウェーリンクの幻想曲に、ウィーン学派のウェーベルンの変奏曲、クシェネクのソナタの組み合わせというソ連では誰も聞いたことのない曲目の組み合わせに、アンコールでは要望に応えてバッハのフーガの技法、ゴルトベルクや平均律等の抜粋が披露された。

 グールドのロシアでの演奏会の空前の成功は、世界の最高水準にあるロシアのピアニストたちを唸らせたほどの演奏技術の高さはもちろんのことだが、斬新な解釈でバッハやウィーン学派の音楽の真価を提示した、その姿勢が共感を呼んだと言えましょう。

 それを一聴して見極めたロシアの聴衆の審美眼にもただ感嘆するのみ。

 2週間足らずのロシアでの演奏旅行ではあったが、グールドはロシアでの芸術家たちの置かれている境遇を鋭く理解し、帰国後ロシアの歴史、文化、政治等を勉強し、後に新聞やテレビ等の様々なメディアを通じて芸術家擁護の立場を鮮明にしてロシアの当局から非難を浴びたが、その態度はロシアの芸術家のみならず一般市民にも大きな勇気を与え続けた。半世紀を経た後もロシアにおける並々ならぬ人気は、こうしたグールドの毅然とした姿勢が共感を呼んでいるためでもある。 音楽家としては異例のことだ。

 当時の日本では、グールドの真価を正しく評価したのは吉田秀和のみ、他の、いわゆる評論家や専門家と呼ばれる人たちはグールドの演奏と音楽解釈を殆ど無視するかゲテ物扱いしたほどで、したがってレコードも売れず、そのため新録音の販売が欧米と比べて常に遅れたほど。
 自分で価値を判断できず、他人の評判を気にするという日本人のブランド志向の哀れなことよ。

 吉田秀和は静かな怒りを込めて書いている : これほどの演奏を聴いてどうして何も感じないでいられるのか?
 
 このビデオでインタービューに応えた多くの人々(音楽院教授や映画監督等々) が異口同音に語っていることがある ;

 グレン・グールドのロシア訪問の衝撃は、後の1991年、ベルリンの壁の崩壊に匹敵するほどの出来事であった、と。
 
この作品は第21回モントリオール国際芸術映画祭(2003年)でグランプリを受賞した。

DVD(KIBM1026)はキングレコードから2005年に発売されている。

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