線文字Bの解読
(The Decipherment of Linear B)


   
ギリシア本土のミュケナイ時代のピュロス宮殿遺跡から出土した線文字B粘土板 
紀元前1200頃の火事で焼き固められれて保存されたもの
鞍職人に配る糸巻きと豚と鹿の皮の量が記してある
アーサー・エヴァンズがクノッソスで発掘した線文字Bが刻まれた粘土板  紀元前1450-1375
神々に献納される油の量が記してある
 『失われた文字の解読』とはなんと魅惑に溢れた言葉だろう !
今日、古代のエジプト、ペルシア、アッシリア、ヒッタイト等の遥か昔の文明の詳細を知ることができるのは、残された象形文字や楔形文字が解読されたおかげだ。
 最も世に知られているエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)を1822年に解読したのはフランスの言語学者シャンポリオンだった。
生来の語学の才能に恵まれ、11歳でヘブライ語、13歳でアラビア語、シリア語、アラム語、20歳までにラテン語、ギリシア語、アムハラ語、サンスクリット語、アヴェスタ語、パフラヴィー語、ペルシア語、中国語を習得したシャンポリオンであったが、解読に決定的な貢献をしたのは、1799年にナポレオン軍がエジプトのロゼッタに近いラシッド要塞で発見した古代エジプト文字(聖刻文字)、聖刻文字から生じた民衆文字と呼ばれる筆記体と、ギリシア文字との三国語併用刻文とを併記した 『ロゼッタストーン
プトレマイオス5世の執政下の紀元前 198 年にメンフィスで開かれた宗教会議の布告を記した碑文』 を手掛かりに、聖刻文字が表音文字であるとともに表意文字でもあることを解明した事で解読を成し遂げることができた。
 だが、碑文の内容そのものは、発掘された時点でギリシア語を読めるナポレオン軍の将校がすでに解読していた。 
さらに、多くの言語学者により解読が進められていて、シャンポリオンがいなくても解読は時間の問題だった。
 楔形文字で書かれた古代ペルシア文字は1802年にドイツの無名のギムナジウム教師だったグローテフェント( Georg Fridlich Grotefend
: 1775 - 1853 ) によって1802年に、ついで全く別途に,1835年にイギリスの東インド会社の陸軍士官だったローリンソン ( Henry Creswicke Rawlinson : 1810 - 1895 ) によって解読されたが、同様に多言語碑文があった ; 古代ペルシアのダレイオス王が反乱軍への勝利を記念して作らせたベヒストゥン碑文は古代ペルシア語、エラム語と新バビロニア語(後期アッカド語)の三か国語で併記されていた。 そのうえ、なんと古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語、エジプト語の4か国語が併記されていたクセルクセス王の雪花石膏花瓶まで存在した。 
 さらにギリシアのヘロドトスの『歴史』には古代ペルシア歴代の王の名前が全て記されている等々、解読の手掛かりは豊富にあった。

クレタ島で発掘された未知の文字と言語 - クレタ聖刻文字・ 線文字Aと線文字B

 1900年にイギリスの考古学者、アーサー・エヴァンズ( Arther Evans 1851 - 1941 )がクレタ島にて発掘したクノッソスの宮殿と、クレタ島各地の遺跡からから、後にクレタ聖刻文字、線文字Aと、線文字Bと呼ばれるようになった文字を刻んだ粘土板が発見された。
 クレタ聖刻文字は、おそらく紀元前2000年紀にクレタ島にて、今日ミノア文明と呼ばれるようになった文明を興した先住民族によって発明された筆記法と考えられている。それから発展した線文字Aは紀元前1750から1400年頃まで使われていた文字であり、クレタ島と周辺の島のみにて発見されるが、発掘された枚数が少なく、今日に至るまで未解読のままだ。
 線文字Bは線文字Aから派生した文字で前述の二つの文字同様、言語も文字も未知であったが、クレタ島だけではなく、既に数十年前からギリシア本土、ミュケナイ、テバイ、ティリュンス、エレウシウス、オルコメノスの発掘品からも知られてはいた。
 しかしそれはあくまでも考古学的な発見に過ぎず、解読の試みが行われることもなかった。
言語学的な関心が盛り上がったのは、クレタ島と、後にギリシア本土から大量の線文字B粘土板が発掘されてからのことだった。
 古代文明の解明には文字の解読が何よりも重要な手掛かりとなるからだ。

 しかしながら、冒頭で述べた古代エジプトの象形文字や、古代ペルシアの楔形文字とは異なり、線文字Bは、そもそも何時の時代に、如何なる民族が記した言語で文字なのかさえ不明であり、多国語併用文等々、解読の鍵となる手掛かりが一切無いところから始まり、言語学の専門家でも、学者でもない無名の建築家によって純粋に統計的手法を駆使して解読されたという、言語学史上驚異の偉業だった。

アーサー・エヴァンズがクレタ島製と確認した印章  アーサー・エヴァンズがクノッソスとクレタ島各地から発見した三種の文字 
        
紅玉髄刻印章 クレタ島ファイストス宮殿のアヤ・ソフィア発掘の聖刻文字 
線文字A クノッソス出土 線文字B書板
   
   
   
   
       
 
 クノッソスの戦車粘土板  油商人の家から発掘された粘土板 背面には婦人像
染色する羊毛の量を記している
 
 イギリス・オックスフォード付属のアシュモレアン博物館の学芸員だったアーサー・エヴァンズにスパルタに由来するという聖刻文字のような紅玉髄印章が見せられたのは1889年のことだった。
 ヒッタイト( 紀元前1750年頃から1180年頃までアナトリアに栄えた文明。鉄の発明をした文明として知られる ) の聖刻文字に似ていると感じたエヴァンスは、古代ギリシア起源も想定し、4年後の1993年にクレタ島を訪れ、しらみつぶしに手掛かりを捜し歩き、目当ての印章だけではなく、絵文字と線形文字が刻まれた多くの遺物をも発見し、クレタでの発掘を決心した。
 だが当時は、クレタ島はトルコの支配下にあり、かのハインリッヒ・シュリーマン( 1822 - 1890 )が無断でトロイを発掘し、財宝を持ち出したことに怒っていたトルコ皇帝は外国人による発掘を認めなかった。
 シュリーマンもトロイの次に伝説のミノタウロスの宮殿の発掘を狙ってはいたが、トルコの支配下にあるクレタでの発掘を果たす前に死亡した。
 1899年にトルコがクレタ島の支配を明け渡した翌年、かねてから目をつけていたクノッソス宮殿の発掘に成功したエヴァンズは発掘した文字が聖刻文字と、よく似てはいるが二種類の線文字とがあることに気付き、線文字Aと線文字Bとの二つの種類に分類した。
 
 クレタでの発見当初から、それを担った民族と文明と言語と文字について世界の言語の専門家や無数のアマチュアによる研究と憶測と推理と熱狂とが巻き起こされ、考えられるありとあらゆる民族や古代の言語についての論文や新説とが発表されたが、いずれもこじつけと迷妄と錯乱の産物にしか過ぎなかった。
 発掘した当のエヴァンズは遥かに冷静、かつ明確に観察した ; エヴァンズによると刻文板は全て財産目録、明細書、人間と動物と物品のリストで、それぞれの刻文は左から右に読まれ,何を表しているかは、文字群または行の終わりの象徴的に絵で表した表意文字から察せられ、数量は十進法で記されている。常用のおよそ70ある線記号あるいは線文字のうち10個がキュプロス音節文字記号に一致し、ほぼ同数が後代のギリシア文字と類縁のある形状を示している。
 
 と、鋭い観察力を示したエヴァンズは線文字Bを自ら解読しようとして、発掘された粘土板 120 枚を1907年に 『ミノア文字 I 』の表題で刊行した。しかし、その続編を刊行すると宣言しながらも、実行には移さず、発掘された膨大な粘土板を公開することもなく、線文字Bに関する情報を独占し、死蔵し、他の研究者が新たな発掘を公開しようとすることを妨害さえし、1941 年に 90 歳で没した。
 

キュプロス音節文字
 
 
 
   
 キュプロ・ミノア文字       キュプロス音節文字粘土板 線文字Bとキュプロス音節文字の比較 

 アーサー・エヴァンズが発掘し、観察して、線文字Bがキュプロス音節文字と共通した文字が存在するという認識が、後の多くの解読者たちの指針となったが、それはまた、多くの迷路へと導く事にもなった ; 何故なら、線文字Bはクレタ島でギリシア人によって紀元前 1550- 1200 年頃まで使われた文字であり、それより遥かに年代の新しい、キュプロス島で非印欧語を使っていた先住民の文字とのほんの少しの類似点を基に解読を試みようとするのは無謀な企てとしか言えないからだ。だが、1900年初頭、未知の文字と言語であった線文字Bを解読しようとして、無数の挑戦者たちがまさに藁にも縋る思いで、キュプロス音節文字に頼ったのだった。

 キュプロ・ミノア文字 ( Linear C )  
 ギリシアの青銅器時代後期、ミノア文明時代のキュプロス島で紀元前 1550-1150 年頃まで使われた音節文字(音節文字とは日本語の仮名のように母音と子音とが一体になって発音される文字)で、後にキュプロス音節文字に進化したと考えられる線文字Aと関係していると考えられている。
 キュプロス島の他にシリアの地中海沿岸にあるウガリットの遺跡からも取引を記したと考えられる粘土板が出土している。

キュプロス音節文字
 紀元前8世紀から3世紀頃まで使用された音節文字。この時代のギリシア語圏では既に文字は音節文字ではなく、表音文字であるアルファベットに代わっていたが、キュプロス島では非印欧語を話していた先住民がギリシア語を記するためにキュプロス音節文字を使い続けていた。
 1869年にキュプロス文字とフェニキア文字の二言語碑文が発掘されてから解明が進み、1871年にこの文字が音節文字であると判明し、続いて 1874 年にはギリシア語の表記に使われた文字であることが分かった。しかし言語そのものは依然として不明。

線文字B 解読への道
 線文字Bについての膨大な情報を独占し、死蔵したまま没したエヴァンズについては、その後の研究を半世紀に渡って停滞させたとの非難が浴びせられていて、実際その通りなのだが、本人の意図せざるところで、その解読に絶大な貢献を遺した ; 
 1936年、アーサー・エヴァンズはロンドンにて自分が発掘したミノス文明に関する講演を行った。 
その講演の聴衆の中にいた 14 歳の少年こそは 16 年後の 1952 年に線文字Bの解読を成し遂げたマイケル・ヴェントリスだった。
 マイケル・ヴェントリス( Michael George Francis Ventris : 1922 - 1956) は英国のインド駐在陸軍将校の父とポーランド系の母親との間に生まれ、父の方針でスイスのレマン湖に近いグシュタート (Gstaad) のインターナショナルスクールで教育を受け、ドイツ語とフランス語、とドイツ語のスイス方言とを学び、母親の母国語であるポーランド語、後にたった数週間の滞在でスウェーデン語をマスターした程の語学の才能に恵まれていた。 7歳の時にエジプト象形文字に関するドイツ語の本を読んでから古代文字に関する興味を抱き、14歳でエヴァンズのクレタ文明の講演を聴き、本人に直接、線文字Bが未解読であることを確認して、その解読を生涯の目標にしたという。
 しかしその後の人生は多難であった ; 14歳で両親が離婚、16歳で父親に死別したために、生計をポーランドの母親の親戚からの仕送りに頼ったがナチスのポーランド侵攻により、敵国となった英国への送金が途絶えてしまった。18歳の1940年に母親が自殺し、大学への進学を諦めてロンドンの英国建築家協会付属建築学校に進学し、卒業後に製図工と建築家として身を立てることになった。
 しかし線文字B解読の目標は諦めず、1940年、18歳の時に、線文字Bの言語はエトルリア語であるとする観点から『ミノス文字概論』をアメリカの専門誌に発表した。
  線文字Bがエトルリア語であるとする考えは1952年末に、それがギリシア語であるとの結論に至る直前までヴェントエリスが抱いていた。 
エトルリア語

   エトルリアとは、紀元前 9 世紀頃イタリア中部の主にトスカーナ地方、現在では Taruquinia, Volterra, Perugia, Mantova, Modena, Padva, Cesana, Bolsana, Siena 等の都市に築かれた都市国家連邦。
 最盛期には南のローマや北のボローニャ、地中海のシチリア島、サルデーニャ島まで進出し、交易を行ったが、その後紀元前5世紀頃のガリア人の侵入、更にローマの拡大により紀元前3世紀に消滅し、その後ローマ帝国に同化した文明だ。
 それを担ったエトルリア人は、イタリアの土着民族であるとも、あるいはトロイ等、他の土地から移ってきた等諸説があり、詳しいことは現在も不明。 しかし、敗れたとはいえ、建築や製鉄等々優れた技術を持ち、ローマ帝国創世期に大きな影響を及ぼした。
 とりわけ、今日ローマ字と呼ばれるアルファベットはエトルリア人が伝えたもの。西方ギリシア語の、紀元前8世紀頃イタリア南部に進出していたギリシア人から学んでエトルリア語の表記に使われた文字が起源だ。
 したがって、エトルリア語を読むことはできるが、しかし言語そのものが印欧語とは異なり、僅かに解明された数詞なども、世界の如何なる言語とも異なるため、未だに解読されていない。
 18世紀以降、イタリア中部各地からエトルリア人の残した地下墳墓が発掘され、膨大なギリシアから輸入した壺、金属器、壁画、彫刻や碑文が得られた。 が碑文のほとんどは短い墓碑銘であり、解読の手掛かりにならない。
 エトルリア学者たちは、ラテン語とエトルリア語の二国語併記碑文が発見されるのを切望している

アリス・コーバー( Alice Elizabeth Cober : 1906 - 1950) の3語形群
 

 線文字B解読の試みの初期に決定的な指針を示したのはアメリカの言語学者、アリス・コーバーの3語形群と呼ばれる、体系的な一覧表だった。
 彼女はニューヨークの大学でラテン語を学び、卒業した1928年にミノア語の解明をライフワークと決心し そのためにサンスクリット語、ヒッタイト語、古代ペルシア語、印欧諸語、セム語、シュメール語、バスク語と広範な言語を学び、更に資料の少ない線文字Bを解読するためには科学的な手法が必要と考え、化学や物理、数学を学んで臨んだのだった。
 彼女が整理し、作成した一覧表は、この文字が文法的語尾変化(名詞や形容詞の性や単数、複数による語尾変化)を持つ言語であること表記している。ここで見られる語尾変化は言語学者から見れば 印欧語の特徴を示唆している。
 このように整理された一覧表は、いわゆる網目スクリーン、または格子の原型であり、この格子をさらに拡張して、つまり網目をどんどん狭くして行けば個々の文字の音価をとらえることができる。
 だが、アリス・コーバーはこの文字を一字も読むに至ることなく 1950 年、病気のため早世した。

マイケル・ヴェントリスによる線文字Bの解読
  1940年、18歳の年にミノス文字の概論を発表したヴェントリスは、しかし、その後の6年間、大英空軍のパイロットとして、戦争に従事し、戦後もイギリスのドイツ占領軍に属し、1946年にようやく除隊し、本職である建築の仕事と、ライフワークとした線文字Bの解読とに専念できるようになった。
 その間アメリカの考古学者、エメット・ベネットによるギリシア本土のピュロスでの発掘とピュロス書版、クノッソス書版の出版、ミノス文字の度量衡法の解明と体系化等による新たな情報の充実等の進展はあったものの、線文字Bの解読は一向に捗っていなかった。  ヴェントリスは戦争中も資料を持ち歩いて、ノートを作成し、解読の研究を続けていたが、それらを破棄して、新たに一連の詳細な文字研究を志した ; 1951年1月から1952年6月まで、彼は自分の『研究ノート』 を複製して世界の研究者24人に送り、共同研究を呼び掛けた。全部で20刊に及ぶ研究ノートにはヴェントリスが如何にして解読に辿り着いたか、その軌跡が克明に記録されている。 

 注目すべきは、彼が線文字Bの解読を果たしたとの感想を抱いた1952年6月のたった半年前まで、依然として線文字Bはエトルリア語を記したものではないかと考えていたことだ。    
 アーサー・エヴァンズが1909年に宣言しながらついに履行しなかった『スクリプタ・ミノア II 』が1952年2月にエヴァンズのかつての弟子のジョン・マイヤーズによって刊行された。
 これにより数多くの新たな単語が追加されたことで、ヴェントリスは従来の格子を諦めて新たな格子を再構築した。
従来の格子ではどうしても解決できなかった単語の語尾変化と粘土板の文章中での食い違いを再検討する必要に迫られた。
 さらに、ウガリット出土の同時代の計算書から類推して、ピュロス粘土板とクノッソス粘土板に共通してしばしば現れる単語を地名と推定してコーバーの三語形群にも含まれている単語群を分析して読み直してみた。
 その結果は重大だった : そこに現れてきたのは ; リュクトス、ファイストス、チュリッソス、クノッソス、アムニソス、と、古代クレタの重要な都市の名だった。
 これらの音価が正しければ、それに伴い不可避の連鎖反応が格子に生じてくる ; 今や31の記号が確かな音価を認められた。
 こうした発見を基に1952年6月の研究ノート20号では、「 気軽な道草 」 と書かれた序文に 〔クノッソス粘土板とピュロス粘土板はギリシア語で書かれているか ?〕 とヴェントリスは未だに半信半疑の状態だった。
 だが、研究ノートを送った後に再検討を進めて、更に多くのギリシア語の単語を見出したヴェントリスは、しかしこれらのギリシア語の綴りと古典ギリシア語の語形との著しい差異に戸惑いを隠せなかった。
 本人曰く、ギリシア語は齧っただけに過ぎない、ヴェントリスが自力では解決できない壁に突き当たったことを自認し、専門家による緻密な検証の必要があることを痛感した。
 と、『 スクリプト・ミノア II 』 の刊行に因んで行われたBBCのラジオ放送に依頼された講演にて率直に述べた。
そしてこの放送をジョン・チャドウィックが聴いていた。
   
 1952年2月 解読前の格子  1952年12月 『ミュケナイ古文書におけるギリシア方言の証拠』 に示された決定的な音節文字表

ジョン・チャドウィック の登場

 ジョン・チャドウィック ( John Chadwick : 1920 - 1998 ) はケンブリッジ大学で言語学を学んだ古代ギリシア方言の専門家。
彼も大学に入る前から言語に深い関心を抱いていた : 古代ギリシア語のほかに現代ギリシア語方言、チベット語、サンスクリット語、日本語も学んでいた。ヴェントリスと同じく学生時代に第2次世界大戦を迎えたため 5 年間の海軍生活を送り、除隊後の1945年に大学を卒業した。翌年1946年のクレタ語の研究を独自に始め、それがギリシア語かも知れないと考えたが、それ以上の進展がなかった。
 ヴェントリスの講演を聴いたチャドウィックは早速、オックスフォードでのラテン語の辞書の刊行で一緒に仕事をしたジョン・マイヤーズに連絡を取った。 
 ヴェントリスから彼に送られていた最新の研究ノート20号を見せられたチャドウィックは、当初は半信半疑であったが、線文字Bにギリシア語の可能性を考えたこともあり、ヴェントリスの格子を書き写し、ヴェントリスが設定した音価をテキストに当てはめてみると、偶然とは思えないほどのギリシア語がヴェントリスが仮定した綴り字法から現れてくるのを認めざるを得なかった。
 さらにヴェントリスが疑念を抱き、解決に苦しんだ非古典的な語法も、古今のギリシア語方言に精通した専門家のチャドウィックには自明の理であった。
 早速連絡を取り合った二人は1952年の暮れには『ミュケナイ古文書におけるギリシア方言の証拠』を完成し、翌年、学術専門誌
 『 The Journal of Helenic Studies』 に掲載された。
 それはつつましい体裁であったが内容のしっかりした、記憶に値する論文として、2年後にはミュケナイのギリシア語について百篇もの論文を呼ぶほどの反響を呼んだ。
 彼らは論文を発表する前に一連の講演を行い、前もって論文の要約を送ることでスウェーデンとイギリスの言語学の専門家たちの支持を得ていた。
 しかし、大多数の専門家たちは冷淡な態度を取り、批判の十字砲火が始まった。
当時の定説では紀元前16世紀のクレタ島にミュケナイ方言を話すギリシア人の文明があったとは考えも及ばないことであったからだ。 

カール・ブレーゲンの発掘したピュロス出土の粘土板 - 解読の正しさを決定した粘土板

 
 
 1952年夏にギリシア本土のピュロスにあるアノ・エングリアノス宮殿遺跡から発掘された三脚の器と容器に関する財産目録刻印粘土板
 
       アメリカの考古学者、カール・ブレーゲンも、ヴェントリスの解読には用心深い控えめな態度で見ていたひとりだった。
 ブレーゲンは1952年の夏にギリシア本土のピュロスにあるアノ・エングリアノス( Ano Englianos )宮殿遺跡を発掘して新たに330枚の粘土板を発掘していた。
 これらを一つ一つ研究し、比較して公開の準備をするために1953年春、アテネに入った。
 1953年の5月、その中の1枚の三脚の器と財産目録書が記された粘土板を調べていたブレーゲンは驚きをもって粘土板に記された文字と内容とを読んでいた。
 そして1953年5月16日に、ブレーゲンは二人の解読者に手紙を書いた ;
 明らかに壺について記した一枚の粘土版を発見し、そこに描かれている様々な壺を現す表意文字と、それらについて書かれた表音文字とを、二人の解読した方法で読んだ結果とを知らせた : ”これらの解読の結果は、すべてあまりにもみごとで本当とは思えないほどだ。偶然の一致ではあり得ない” と
 左の表のごとく、他の言語学者の解読も全く同じ結果となり、ヴェントリスの解読の正しさが裏付けられ、全世界の著名な言語学者がためらうことなく承認と賛意を表明した。

 語学の才能に恵まれていたとはいえ、専門の言語学者でもなければ、大学も出ていない建築家であったマイケル・ヴェントリスが、14歳でアーサー・エヴァンズの講演を聴いて以来、線文字Bを、統計学的手法を駆使し独力で解読を成し遂げたのであった。
 

  線文字Bの解読が世界的に承認された後もヴェントリスは本業の建築の仕事とともに、チャドウィックとミュケナイの文字、言語、文化、各地で発掘された粘土板の翻字と注釈、さらにミュケナイ語の単語表と様々な索引をまとめた3部からなる大著の出版を手掛けた。
 そして1956年9月にロンドン郊外にて交通事故で亡くなった。 享年34歳の若さだった。
 線文字Bが解読され、それが紀元前15世紀頃にクレタ島に移住したミュケナイのギリシア人によって書かれた、現在とは異なる文字であったという事実は、歴史を書き換える発見だった。
 一般に、ヨーロッパの文化の源流となったギリシアの歴史と言えば、せいぜいホメロスの叙事詩やオリンピックが開催された年とされる紀元前8世紀頃までしか知られていなかったから、それを一気に700年も遡る資料が発見され解読によって明るみに出た事はまさに歴史上の偉大な発見であった。
 一つ残念なことは、線文字Bに記されていたのは、在庫表や、物品目録であって、これを書いた書記や役人達は当時の人々の生活を示す事実も、歴史の出来事も,詩の一遍も、落書きすらも書こうとはしなかった。
 即ち、線文字Bは一般に使用されることもなく、単に在庫を記するためだけに作られ、使われた文字
であった。


参考文献     
   
 
 
   
 
 
 
  線文字Bの解読        ジョン・チャドウィック著       1962年    みすず書房 
失われた文字の解読 I II III      Eドーブルホーファー著        1963年    山本書店 
  文字の世界史     ルイ=ジャン・カルヴェ著     1998年   河出書房新社 
  西欧言語の歴史      アンリエット・ヴァルテール著     2006年   藤原書店 


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