小説・映画・音楽 : 蜜蜂と遠雷


 

   2016年に発売された恩田陸の 『芳ヶ江国際ピアノコンクール』 の挑戦者を主題に書かれた小説。 
2017年に直木賞と本屋大賞とを受賞し話題になった。 
 演奏される楽曲の描写が見事と評価が高く、どんな内容なのか、まずは図書館で借りて読んで見ようかと
思ったのだが、書架の一段を全部埋めても入りきらないほどの多作の作品の列にこの本は一向に姿を現さなかった。 
 人気の本故、予約が多いのではないかと調べてみたら、なんと2年以上待たないと借りられないほどの状況だった。 
それでは何時になっても読めそうもないので、たまたま立ち寄った本屋で内容を見たところ、面白そうなので入手して
読み始め、止められなくなりその日の内に読み終えてしまった。
 3年に一度、浜松で開催される国際ピアノコンクールをモデルに、挑戦するピアニスト達が主題となっていて、コンクールの予備審査から本選までの過程が500ページ余りに渡ってドキュメンタリー風に書かれている。
 だが、作者が書きたかったのは、コンクールの過程でも、結果でもなく、”音楽を演奏することとはどういうことか、そして音楽の才能とは何か ?” ということに尽きる。
 膨大な時間をかけてじっくりと聴きこまれた音楽と、練り上げられて書き込まれた作品は前述のように出版界で大きな反響を呼び、不可能と思われた映画化が成功裏に行われ、作品中で演奏される音楽がCDとなって評判となるなど、文学界と映画界と、音楽界とを席巻するという稀有な連鎖反応を巻き起こす結果となった。

この本に登場する4人のコンテスタントが、多様な才能に恵まれたピアニストをそれぞれ代表している ;

  栄伝亜夜               幼少時より天才少女として演奏活動を展開していたが、13歳でピアノの指導者だった母の突然の死により、音楽家としての動機を喪失し、コンサートの舞台から逃げ出してしまった。
 しかし母の音楽大学時代の同級生だった音楽大学の学長にその才能を惜しまれ、大学に誘われて、コンクールに再挑戦を試みる。 が、コンクールに出ることになってももう一つ、勝とうという意欲が起きないままでいた亜夜の音楽への意欲を掻き立てさせたのが、コンクールで出会った様々な才能を持ったピアニスト達の演奏だ。
                                   
   マサル・カルロス・
レヴィ・アナトール  
 
  抜きんでた才能と恵まれた容姿とで優勝候補の筆頭に挙げられているマサルは、日系三世のペルー国籍の母親とフランス人の父を持ち、世界各地を転々とする生活の後にニューヨークのジュリアード音楽院で頭角を現し、ジュリアード王子とまで呼ばれる、人気筆頭のコンテスタントだ。
 小学生の頃、日本で3年間暮らし、外国人として小学校で仲間はずれになっていたマサルを音楽の道に誘ったのが亜夜だった。
                                   
  風間 塵                フランスで養蜂家の父親と花を追って各地を転々とし、正規の音楽教育も受けず、自分のピアノさえ持っていないが、伝説のピアニスト、ユウジ・フォン・ホフマンから直々の教育を受け、異例の推薦状にてパリでの予備審査にて審査員に衝撃を与えてコンクールに参加してきた16歳。
                                   
  高島明石                 音楽大学時代に日本で最も権威のあるコンクールで5位に入賞したが、楽器店に職を求め、結婚して妻子がある28歳が音楽家への夢を捨てきれず、最後のチャンスにコンクールへ挑戦する。 
 学生時代に亜夜の演奏に出会い、その圧倒的な音楽の才能を尊敬している。

 栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールと風間塵の3人は、世界的な水準で活躍が約束される才能のピアニストとして描かれている。 
 しかし作者は、それほどの才能が無いにしても、誠実に音楽に向き合うピアニストとして高島明石を位置付けている。 
 日本で最も権威のあるコンクールで5位になったというのは、もちろんそれなりの音楽の才に恵まれていなければ出来ないことだ。 だが5位というのは微妙な評価だ。
 毎年行われるコンクールであるから、競争の激しいこの世界にあっては5位というのは、いわば”その他大勢”の一人でしかない。 
 例え優勝したからと言っても、演奏家として独り立ち出来るとは限らないのがこの世界だ。
 だが、どうしてもピアニストとして舞台に立ちたい思いを捨てきれない高島明石に、作者は暖かい思いを寄せている。 
 本選には残れなかったが、印象に残る、将来性のあるコンテスタントに送られる奨励賞と、作品の中でコンクールのために作曲された”春と修羅”の演奏者に与えられる日本人作曲家の菱沼賞とを与えることによって、高島明石のピアニストとしての将来への展望を期待させるという作者の配慮が、この作品に一段と深みを与えた言えるだろう。
 この4人がお互いの演奏に啓発され、それぞれの音楽に対する理解と解釈とを深め、進化させて行くというのが、この小説の主題と言える。 
 4人とは対照的な存在として、マサルと同じジュリアード音楽院の同窓でコンテストに挑戦しているジェニファー・チャンが登場する ; 抜群の演奏技術を持ち、既にニューヨークでは演奏活動を始めていて、このコンクールでも聴衆や審査員の高い評価を受け、奨励賞を受けたものの2次予選で敗退してしまう。
 チャンの演奏スタイルを、マサルと亜夜とがディズニーランドのアトラクションと感じ、他のコンテスタントたちの演奏を聴くのを楽しんでいる風間塵もチャンの演奏には違和感を覚えて、”違うなあ” と呟く。
 さらに、作品の中で ”春と修羅” というこのコンクールのために作曲された課題曲が登場人物と並ぶ重要な主役となっている。
第二次予選で演奏されるこの課題曲の、とりわけ、自由な発想での即興演奏を要求される“カデンツァ”をどのように把握し、演奏するかで、それぞれの個性と音楽性とが試されるという、作者の巧妙な仕掛けだ。
 この仕掛けによって、”蜜蜂と遠雷” は小説としての面白さが一段と深みを増したといえるだろう。 
”春と修羅”とはいったいどんな曲なのかと、読みながら大いに想像を掻き立てられた。

 作品を書くにあたって、作者はモデルとなった『浜松国際ピアノコンクール』を2006年の第6回コンクール以来4回、予選から本選まで毎回100人近い演奏者を全て聴いたという。
 恐らく400人近い演奏者を聴いて、じっくりと想を練り、構成をまとめて執筆を進めたのだろう。
 作品は幻冬舎のPR誌 『星星峡』に2009年4月~2013年11月号、さらに『ポンツーン』誌に2014年1月号~2016年5月号と掲載し、それに大幅な加筆修正を加えて2016年9月に刊行され、入手した2017年4月には第13刷と、異例の大増刷を重ねたものだ。
 
 予選や本選に登場する曲の演奏の描写は評判の通り、作家がそれらの曲を良く聴きこんでいることは間違いないが、しかし音楽は実際に聴いてみなければお話にならない。
 幸いなことに、この本の冒頭に記されている課題曲や、4人の主人公たちが演奏する曲はほぼ手元にあった。
しかし、実のところ、ピアノコンクールの課題曲になるような曲は極め付きの名曲には違いないが、とは言え熱心な聴き手とは程遠く、持ってはいても協奏曲等はモーツァルト以外は滅多に聴かない有様だった。
 従って、この本を契機にまさにコンクールの聴衆になった気分で、それぞれの曲を歴代のピアニストの演奏で聴き比べたりして2年余り過ごしていたところ、何とこの作品が映画化されるという情報が入った。
 この作品の映画化とは大胆な発想であり、音楽への余程深い知識が要求され、安易な映画化はせっかくの傑作を台無しにしかねない、と危惧する一方で、映画化するのであれば、それなりの自信があるのだろうと、一体どんな風に映画化したのかと、とりわけ”春と修羅”の出来映えには大いに興味をそそられたが、ネットで予告編を見ると、冒頭の画面の発想と映像の美しさに、これは面白いに違いないと確信した。
 映画化された作品は予想をはるかに上回る出来だった。 
よくぞここまでと感心するほど、作品を読み込み、咀嚼し、整理してして映像化したものと感嘆させられた。

一体、如何なるスタッフがこの作品に関わったのかとネットで当たってみたが、。

映画 『 蜜蜂と遠雷 』
       
       

 作品の中心をなす4人のピアニストを演ずる配役は、まさに小説を地で行くようなイメージの俳優が選ばれ、彼らがそれに相応しいキャラクターを演じきっていたのにまずは感心。
 この小説のもう一つの主役と言える、宮沢賢治の詩、”春と修羅” を主題にしたピアノ曲がどんなものか、小説を読んだ時から気になっていた。
 映画のために作曲され、とりわけ主役の4人の音楽性に合わせて演奏される即興のカデンツァが映画の中では全曲演奏される重要な曲だが、これが出色の出来だった。ラヴェルを思わせる素晴らしく透明な曲想はピアノ曲の傑作として、今後演奏され続けるに違いない。 ”春と修羅” を聴くためだけでもこの映画をみる価値があるといっても差し支えない。

 音楽、正しくは、ピアニストが主題となっている作品ではあるが、音楽映画ではないから映画では小説中に詳細に挙げられているコンクールの曲はごく一部しか演奏されない。だが、栄伝亜夜のピアニストとしての成長を刺激するマサルとの再会や風間塵との月夜の二重奏等のエピソードが心地よく描かれている。
 栄伝亜夜が本選で演奏するのは小説ではプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の筈だったが、映画では3番になっていた。
実は映画を見ていて気が付かなかったが、CDを聴いていて気が付いた。。
 ネットでも話題になっていて、よくよく調べてみると、映画監督がマルタ・アルゲリッチの演奏を聴いていて、栄伝亜夜には3番が相応しいと、原作者の承諾を得て変更したとのこと、したがって、原作では3番を弾くはずだったマサルが2番に代わっている。 おかげで映画を見た後で、もう一度原作を読み、ついでに映画ももう一度見てしまった。
 監督はポーランドの映画大学で学んだとのこと。音楽にも詳しく、映画の脚本も書いてしまったほど。
映画というのは、実に多くのスタッフによってつくられるものだが、この映画に限っては、監督の石川慶の手腕が主導的な役割を果たしたのだと納得できた。 500ページ余の原作を2時間の凝縮した映画にまとめたこと等々、達人が隅々まで目を通して優れた映画作品に仕上げられたのには訳があったのだ。

『蜜蜂と遠雷』 の音楽
 映画で4人の主役が演奏する曲を担当するピアニストは、映画の石川慶監督が小説のキャラクターに合わせて自ら選んだとのこと。 いずれも錚々たる経歴のピアニストたちが選ばれている。
 とりわけこの小説のもう一つ重要な主役でもある宮沢賢治の『春と修羅』の、それぞれの役柄に合わせて作曲された4種類のカデンツァ(即興演奏)は聴きものだ。 この曲は、世界的に活躍している作曲家・藤倉大が映画のために作曲したものだが、現代曲としては、ピアノ曲の傑作と言っても良い、そしてまことに美しい曲だ。
 4種類のカデンツァを聴き比べるために4枚のCDを買ってしまった。小説の中では演奏されることになっているが、映画では取り上げられなかったそれぞれのピアニストがコンクールで演奏したであろう曲が、抜粋も含めて入っていて、いずれも聴き応え十分。実際のコンクールに立ち会った気分になれる。
 演奏者はそれぞれ別のレーベルに属しているがCDのジャケットは統一したデザインで出されている。
さらに、古今東西の名演奏者達による、抜粋ではなく、小説に記された予選から本選までの全ての曲の完全演奏版も8枚組(3000円余りのお買い得のコンパイレーションCD)で出ているという賑やかさだ。
       河村尚子(1981~)
 5歳にしてドイツに渡り、ハノーファー音楽演劇大学にて学んだ。

 2001年のヴィオッティ音楽コンクール、2002年 カサ・グランデ音楽コンクール
 に優勝、2003年 ゲザ・アンダ音楽コンクール3位、2006年 ミュンヘン国際コンクール2位、2007年 クララ・ハスキルコンクール優勝と、錚々たる経歴をもつ。
 作品の中心となる栄伝亜夜をイメージして選ばれただけあって、如何にも天才ピアニストに相応しい実力と経歴とを備えたピアニストだ。
 名前だけは知っていたが、今回初めて聴いた。
 ”春と修羅” には4つのヴァージョンがあり、作品で書かれたそれぞれのピアニストのイメージに基づいて異なるカデンツァが作曲されたが、この栄伝亜夜ヴァージョンと演奏とが最も気に入っている。
 これを聴くためにCDを買ったようなものだが、もちろん他の曲の演奏も秀逸。
  確かに栄伝亜夜が本格的なピアニストとして、こんな演奏を繰り広げてゆくのだろうと感心した。
 他のピアニストも含め、彼らを選んだ映画監督の石川慶の音楽に対する造詣の深さには驚かされた。
 


       

      金子三勇士(1989~)
 ハンガリー人を母に持ち、6歳からバルトーク音楽小学校で学び、11歳にてハンガリー国立リスト音楽院特別才能育成コースに入学。
 2008年バルトーク国際ピアノコンクール優勝


 小説のマサル・カルロス・レヴィ・アナトールと似たような境遇と音楽の才能とが備わり、容貌まで似たピアニストをよくぞ探したもの感心する。
 マサルがこんな風に弾いたであろうと思わせる演奏技術と音楽性には圧倒される。冒頭のモーツァルトのピアノソナタ第13番K333も藤田真央の第12番同様出色の出来だ。
 ラフマニノフ、春と修羅、バルトーク、リスト、プロコフィエフと超絶技巧の難曲だけでなく、モーツァルトやショパンの曲なしなやかな演奏も味がある。


        藤田真央(1998~) 東京音楽大学生
 
 2013年 ロザリオスルチーニ国際コンクール優勝
 2016年 故中村紘子が主催した浜松国際ピアノアカデミーコンクール優勝
 2017年 クララ・ハスキル国際ピアノコンクール優勝
 2019年 チャイコフスキー国際コンクール 2位

 今年のチャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門2位となり、たまたまテレビ番組でモーツァルトのピアノソナタを演奏していたのを見かけて、まるでモーツァルト本人が弾いているかのような、軽やかな演奏スタイルに感心したばかりだったが、映画で風間 塵のピアノを担当し、まさに役にぴったりの演奏家が選ばれたものと納得。
 このCDの冒頭に入っているモーツァルトのピアノソナタ第12番 K332 は絶品です。 モーツァルトのソナタはこんなに面白かったのかと、手持ちのダニエル・バレンボイム、クリスチアン・ツァハリアス、マリア・ジョアン・ピレス等々、一週間ほどかけて、いずれも定評ある演奏を全て聴きなおしてしまった。
 いずれ藤田真央がモーツァルトのピアノソナタ全集を出したら全部聴きたくなった。
 クララ・ハスキルコンクールや、チャイコフスキー・コンクールの予選や本選等の模様は YOU Tube にて全て見られるという、凄い時代になったものです。


     福間洸太郎(1982年 ~)

 パリ高等音楽院、ベルリン芸術大学で学ぶ
 2002年 クリーヴランド国際ピアノコンクール優勝

 映画では第2次予選で敗退してしまった高島 明石の演奏を担当しているので本選で弾かれる予定だった協奏曲は入っていないが、ボーナス・トラックに小説では風間塵が第一次予選で弾くことになっていたバラキレフ(1837 - 1910)が1968年に作曲した、イスラメイ(東洋風幻想曲)が収録されている。
 古今東西のピアノ曲の中で最も演奏困難とされている曲で、滅多に録音されない。 ピアノの名手であったとの作曲者本人が難しいフレーズを弾けなかったほどの難曲。
 福間洸太郎はもちろんのこと、この稀代の難曲を鮮やかに演奏している。
もちろん他の曲の演奏も見事なもの。
 ピアニストとして、世界で活躍できるような才能はないが、しかしプロのピアニストとして、誠実に舞台活動を続けてゆきたいと願う高島明石が如何にも選びそうな、シューマン、ラヴェルはもちろんのこと、菱沼賞を獲得した
”春と修羅とカデンツァ”をそれに相応しい水際立った演奏を展開している。
  


バラキレフのイスラメイ(東洋的幻想曲)
    小説の主人公のうち、風間塵が予選で演奏することになっている曲にバラキレフのイスラメイが入っていた。
こんな難曲を予選で演奏するコンテスタントがいそうもないが、風間塵ならやりかねないという作者らしい選曲だ。
 実はバラキレフの6枚組のピアノ曲集を20年以上前から持っていた。
 モルダヴィア生まれで、1978年のバッハコンクールで優勝したアレクサンダー・パリーが1992年に録音したCDだ。
 どうしてこんなCDを入手したのか全く記憶にないが、おそらく ”レコード芸術” で絶賛されていたのを聴いてみたくて
買ったものだろう。 廉価版で名高い Brilliant が出したものゆえ、6枚組でも1500円程度の輸入盤だったはずだ。
 もっとも今では絶版となっていて、極めつけの稀覯版として中古でも2万5千円にもなっている。
 どんな曲なのかもまるで記憶が無いが、棚の奥に入っていることだけは覚えていたが、久しぶりに聴いて
心底驚かされた。20年前には、これらの曲の真価を全く理解できなかったと、思い知らされた。
 エリック・サティーか、あるいはモダーン・ジャズの名手が自由に即興で弾きまくっているという曲想で、こんな曲が
19世紀半ばのロシアで作曲されていたというのは奇跡に近い。
 スターリンの時代であったなら、退廃的な音楽を作ったと、バラキレフは間違いなくシベリア送りになっただろう。
 イスラメイに限らず、他の曲も全てが新鮮で自由な気風溢れる面白いもの、6枚を一気に聴いてしまった。
 この曲を聴いて触発されたラヴェルが作曲したのが ”夜のガスパール 第三曲のスカルボ” で、イスラメイに匹敵する
難曲として名高い。
 CDを聴いてもその凄さ分かるが、たまたま1979年イスラエル生まれのピアニスト、イノン・バルタナンが来日した際の演奏会のビデオに入っていた。 大写しになった画面を見るとこの曲の凄まじさが良く分かる。
 こんな曲を演奏できるピアニストというのは何という存在なのかと感心するのみ。
 Mily Balakirev(1837-1910)  

 と、”蜜蜂と遠雷” という近来稀に見る傑出した文学作品が、上質の映画を生み、さらに”春と修羅”という現代ピアノ曲の傑作、しかも4人の主人公に合わせて4つのカデンツァ・ヴァージョン付きというおまけまでつき、それが、世界で活躍する、ピアニストたちによって演奏されるCDを生むという、文学と映画と音楽とを合わせた稀なるコラボレーションを出現させるという快挙を生んだことは、まことに嬉しい出来事でした。
 おかげで、20年余りもも放置していたバラキレフという作曲家の稀代の傑作の真価を再認識させてもらったのも有難いことです。


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