超弦理論
IV 量子もつれと時空の出現
量子もつれと、量子もつれから時間と空間とが出現するイメージ |
マックス・プランが黒体放射の研究から量子仮説を導入し、統計力学からプランクの法則を唱える論文を書いたのが 1900 年だった。
量子力学の歴史は、ここに始まる。
1905年にはアインシュタインが光量子仮説にて光の粒子と波動の二重性を説明し、初期量子論の確立に大きな貢献を成し遂げた。
さらに1925年ハイゼンベルクの行列力学とシュレーディンガーの波動力学が登場し、1927年にはハイゼンベルクの不確定性原理が示され、ニールス・ボーアが、これらの理論を基礎として量子力学の基礎づけを試みた。
以降、ニュートン以前の古典力学では説明不可能であった、自然界の様々な現象が量子力学で整然と解明されるようになった。
が、量子力学の初期に光量子仮説を唱えて量子力学の発展に大いなる貢献をしたアインシュタインは、量子力学の曖昧性に本質的な疑問を抱き、” 神はサイコロ遊びをしない” との確信から、1935年、プリンストン研究所の同僚、ポドルスキー( Boris Podolsky)、ローゼン (Nathan Rosen) とともに ” 物理的実在の量子力学的記述は完全と考えられるか ? ” と題する論文を書いた。
後に3人の名の頭文字をとって ” EPR ” 論文と呼ばれる議論の核心は量子もつれの奇妙さに確固たる論考をもって ”ノー ” と反論したものだった ;
ニールス・ボーア以来、量子理論によれば
” 個々の粒子の位置の存在は、測ってみるまでは分からない、のではなく、測るまでは存在しない”
” 量子もつれによって繋がっている二つの粒子は空間と時間を超越した量子力学的な結びつきが
維持されている”。
アインシュタインは、このような説に対して ”私が見ていないときは月は存在しないのか ?” と反発し、さらに量子論のもう一つの説明 ; アリスが一つの量子のスピンを測り、それが上向きのスピンをしていると分かった時、遠く離れた場所にいるバズが(例え銀河系の反対側にいたとしても)もう一つの量子のスピンを測ると、それは必ず下向きの、逆方向のスピンを観察することになる。
即ち、” 量子もつれ ” と呼ばれるこの現象は、粒子が何であれ、何処にあれ、例え銀河系の端から端の10万光年も離れた場所にあろうと、二つの粒子を瞬時に関連付ける、というものだ。
相対性理論により、何物も光の速度を超えることは出来ないと、時空の理論を確立したアインシュタインならずとも、こうした、著しく人間の直観に反するような理論は、到底受け入れ難いものだ。
こんな不気味な説を主張する量子理論は不完全な理論に違いない ; 量子力学の先にさらに深遠な理論があって、その理論が記述する量子の新たな性質によって、離れた場所で同時に測定される量子の挙動を記述できる可能性がある。
この ”隠れた変数 ” をもし知ることができれば粒子の挙動を厳密に予測出来るだろう、とEPR論文は結論づけた。
物理学者たちは、この隠れた変数を含む量子力学の後継理論を総称して ”局所的隠れた変数の理論”と呼ぶ。
「局所的」 とはこの場合、隠れた変数のシグナルが光速を超えるスピードで伝わることは出来ないという意味だ。
ベルの不等式
アインシュタインが1935年に同僚とともに発表したEPR論文は、しかし物理学界からはほとんど無視され長年放置されたままだった。
が、ジュネーヴのCERN(欧州原子力研究機構)にて加速器研究をしていたアイルランド出身の物理学者、ジョン・ベル
(John Stewart Bell : 1928-1990) がEPR論文について、アインシュタインが目指した ”完全な理論” がもしあるとしたら、測定にどんな限界があるかを ” ベルの不等式 ” と呼ばれる数式で示した。
ベルの提唱により、それまで哲学的な問題と考えられていた量子もつれの存在を実験で検証する道が開かれ、物理問題として捉え直された。
ベルの不等式は、特定の状況では隠れた変数理論と量子力学の予測が異なる、即ちアインシュタインが期待した、自然における重大真理(局所的隠れた変数が存在する)が存在するか否かを実験によって検証できることを示している。
実験によるベルの不等式の検証
上の表は数学的にベルの不等式を証明したものだが、実際に量子もつれを作って確かめる実験が行われ、その結果、ベルの不等式が破れている、即ち、局所的隠れた変数は存在しないことが証明され、2022年のノーベル物理学賞が、3人の学者に与えられた ;
1982年の実験 フランス・サクレクール大学 アラン・アスペ (Alain Aspect : 1947 ~ )
1990年代の実験 米クラウザー研究所 ジョン・クラウザー ( John Clauser : 1942 )
1990年代~2017年) オーストリア・ウィーン大学 アントン・ツァイリンガー ( Anton Zeilinger : 1948 ~)
さらに完璧を目指して2010年代末までに30年余に及ぶ精緻を尽くした無数の実験が繰り返された結果、ベルの不等式の破れが完膚なきまでに証明された。
かくして 1935年の ”EPR” 論文の ” 隠れた変数 ”の存在が否定された。
量子もつれからの時空の創発
一般相対性理論と量子力学の時空の定義
反ド・ジッター空間/共形場理論 対応
Ads/CFT Correspondence
(Anti-de Sitter Space/Conformal Field Theory Correspondence
AdS : 反ド・ジッター空間
一般相対性理論が記述する空間の一種
量子力学の一種である5次元の空間
空間の曲率が負の空間
(我々の宇宙は曲率が正のド・ジッター空間)
CFT : 共形場理論
場の量子理論の一種で4次元の仮想空間
この二つが密接に関係していて数学的に同じと理解される。
その双対性によって一般相対性理論と量子論とを結びつける
糸口となる。
2000年代始めのころから、量子場のもつれから時間と空間とが生まれるという説を超弦理論の分野の物理学者たちが主張し始めた。
その根拠は、スティーヴン・ホーキングが主張したブラックホールの情報消失論を巡る25年に及ぶレナード・サスキンドやオランダの物理学者、ヘーラルト・トフーフトとの論争を、1997年にプリンストン研究所のフアン・マルダセナが超弦理論の数学を駆使して証明したことに始まる。
この時に使われたのは、ブラックホール内部の情報は、全てその表面に投影されているというホログラフィー理論だった。
即ち3次元の情報が2次元のスクリーンに投影されているという理解から、実は情報、空間、時間等の本質は2次元空間にあり、その平面世界における物質の振る舞いの中から、もう一つの次元が立ち上がってくるのではないかと考えられるようになった。
その内容は余りにも難解で、到底文章で説明できるようなものではないが、図のように、一般相対性理論、超弦理論、ループ重力理論、そして Ads/CFT 対応理論の説明を眺めると、それぞれの理論が時間と空間とをどのように捉えているのかが分かる。
笠・高柳公式
2006年、京都大学の高柳匡とイリノイ大学の笠眞生が提出したエンタングルメント・エントロピー(量子もつれの強さを測る量)の ” 笠・高柳 公式 ” は、量子情報と数学上の仮想空間の重力とに意外なつながりがあることを明らかにし、かつその計算が容易にできるようにした。
それが上の図の ”場の量子もつれから時空が生じる” で説明していることだ。
”笠・高柳 公式は” 仁科記念賞を受賞したほどの歴史に残る業績であり、世界的に注目されて、その後の理論物理学の発展を支える道具として多大な貢献をはたしている。
量子もつれの実用化
こうして実験で証明された量子もつれを応用して、1993年には IBM のベネット (Charles H. Bennett) が
量子テレポーテーションが実現可能であるとする論文を発表し、1997年にオーストリア・ウィーン大学のアントン・ツァイリンガーとローマ大学とが離散変数という限定的な条件ではあるが量子テレポーテーション実験に成功した。
1998年にはカリフォルニア工科大学の Jeff Kimble と古澤明とが連続変数による無条件での実験に成功。
古沢明は、2004年に3者間、2009年には9者間、即ち量子を用いたネットワーク構成につながる実験に成功し、2013年には大規模なネットワーク構成を実現できる完全なテレポーテーション実験に成功した。
2016年には中国が量子通信衛星を打ち上げ、2017年には日本の情報通信研究機構が地上局と超小型通信衛星との量子通信実験に成功した。
量子コンピューター
量子もつれを応用するもう一つの重要な技術である量子コンピューターの可能性が1980年初頭から検討されてきた ;
1980年、量子コンピューターは理論的に殆どエネルギーの消費無しに計算が可能であると指摘された。
1982年、アメリカの物理学者ファインマンが量子コンピュータによる指数関数的な計算が可能であると述べた。
1992年、英オックスフォード大学のドイッチェ(David Deuttch : 1953 ~ ) が量子チューリングマシーンを提唱し、2000年にイオン・トラップ技術を用いて量子コンピューターにて素因数分解実験を行った。
2006年、量子暗号の鍵の生成
2010年、カナダの企業 D Wave System が量子コンピューターを開発した。
2014年、グーグルが量子コンピューターの開発を発表。
2016年。 IBM が5量子ビットのコンピューターをオンラインで公開した。
2017年、IBM は商用量子コンピューター IBM Q System One を発表。
2019年、グーグルがスーパー・コンピューターでは1万年かかる計算を独自に開発した量子コンピューター
Sycamore Processor が3分20秒で済ませた、と発表
と、世界各地で怒涛のような量子コンピューターの開発が進んでいる。
EPR (Einstein-Rosen-Podolsky) と ER (Einstein-Rosen) 二つの論文の復活
1935年5月のEPR論文に続く 7月、シュヴァルツシルトの解を研究していたアインシュタインがローゼンと共に数学的仮説に基づく時空構造モデルを発表し、それは ”アインシュタイン ー ローゼン橋” と呼ばれた。
ER論文とは、二つのブラックホールを結ぶ橋を意味し、別名ではワームホールと呼ばれる。
アインシュタインがほぼ同時に発表した ” EPR : 量子もつれ” 論文 と ” ER : ワームホール” 論文とが実は等価である、即ち ;
EPRの観点に立つと。それぞれの事象の地平線近くからの観測結果が相関しているのは、二つのブラックホールが量子もつれ状態にあるため。
ERの視点に立つと、観測結果が相関しているのは二つのブラックホールがワームホールを介して繋がっているため。
唖然とするようなこの説を発表したのは、超弦理論を率いるフアン・マルダセーナと、同じく超弦理論の大家で、ホーキングとのブラックホールの情報消失論を巡る20年余の論争に勝利したレナード・サスキンドとあれば、これは耳を傾けないわけにはゆかない。
彼らの説によると ;
” サスキンドと私の研究は、2012年発表の別の研究に刺激された。 カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校のアルムヘイリ (Ahmed Almheiri), マロルフ (Donald Marolf), ポルチンスキー (Joseph Polchinsky) 、サリー ( James Sully) による研究で、彼らは量子もつれブラックホール内部の性質に関連して、あるパラドックスを発見した。 これに対し、ブラックホール内部が両者を結ぶワームホールの一部であるとする ER=EPR説に立つと、このパラドックスのいくつかの側面が説ける。
私たちはブラックホールを用いてワームホールと量子もつれ状態のつながりを突き止めたわけだが、この関連がもっと普遍的なものではないかと想像したくなる。
つまり量子もつれがあるところには全て、一種の幾何学的なつながりがあるのではないか。
この推論が正しい場合、もっとも単純なケースである量子もつれ粒子2個のケースでも正しくなくてはならない。
だが、そうした状況では、粒子を結びつける空間的なつながりを生じるには小さな量子構造が必要となり、それらは通常の幾何学に従わないものになるだろう。
私たちはこのような微小な幾何構造を記述する方法をまだ持ち合わせていないが、そうした微小構造の量子もつれが時空そのものを生み出しているのかもしれない。
たとえて言えば、量子もつれは二つの系を結びつける糸のようなものだと見ることができる。
量子もつれの量が増えると糸の数が増え、それらの糸が織り合わさって、時空という織物が出来上がる。
この描像では、アインシュタインの相対論の方程式はこれらの糸の結合と再結合の仕方を支配するルールとなる。
量子力学は重力理論(一般相対性理論)に加えられた単なる添え物ではなく、時空を構築する本質となる。
この描像は今のところまだ空論にすぎないが、この方向を指し示している手掛かりはいくつかあり、私たち物理学者の多くはその意味するところを追及している。
量子もつれとワームホールという、一見すると無関係の現象が実は等価である可能性があると私たちは確信しており、この等価性が量子時空を記述する理論の開発に重要な手がかりを提供してくれると信じている。
そして、待望久しい一般相対性理論と量子力学の統一が実現するに違いない。
後記 I
時間と空間が何処からどのように生まれたのか ?
とは、考えたことも無かったことだが、この20年余り、日経サイエンスに様々な論文が掲載され、例によってまるで理解できなかった。
が、日経サイエンス、2022年6月号の ”時空の起源” 特集号にて、東京工業大学の細谷暁夫名誉教授と日経サイエンス編集部とのインタービューの記事にて、時空の起源に関する研究と理解の進展の流れを整理して少し理解できるようになった。
細谷名誉教授は他の論文の監修にも必ず登場していて、時空の理論ついての最適の解説者だ。
この対談の中で、日経サイエンスの編集部から ”・・・・量子情報にとって重要な様々な量が、AdS 空間の幾何学と結びついたので簡単に計算できるようになったと。 それは確かに役に立ちそうですが、単に計算に便利な数学的ツールが見つかった、ということのようにも聞こえます。
”量子もつれから時空が創発する” とまでいうのはちょっと無茶じゃないでしょうか ? との問いに
” すごく無茶だと思います。 現在証明されている AdS/CFT 対応というのは結局、一方の計算が他方にも使える、という計算のツールに尽きているのです。 だけどそこにホログラフィック原理がかかわってきて、別の期待が生まれています” との細谷暁夫名誉教授の説明には、なるほどと肯かされた。
後記 II
二つの量子間のもつれは、時間と空間とを超越して瞬時に関連付けられるという事実は、アインシュタインならずとも、そんなことが何故可能なのかと疑問を抱かずにはいられない。
長年、疑問に思っていたのだが、今回様々な資料をじっくり読んで思い至ったのは、例え10万光年離れていようが、二つの量子間の関連が瞬時に”伝わる”という表現が正確ではない、という結論にたどり着いた。
つまり、観察されたある量子の情報がもう一つの、あるいは全ての空間に無限に存在する量子に”伝わる”のではなく、全ての量子が関連付けられているような宇宙に我々が存在している。
したがって、一つの量子の上向きのスピンを観察すると、それが何処であれ、例え10万光年離れていようとも、観察されたもう一つの量子は必ず反対の下向きスピンが観察される。
しかしながら、それらの量子間の関連は観察しない限り存在しない、ということ。
まことに奇妙な事実だが、そういう奇妙な宇宙に我々が存在しているのだと考えれば腑に落ちる。
ああ、ようやくすっきりした !!!!!!!
後記 III
ノーベル賞を受賞した”光量子仮説” にて初期量子理論の創設に貢献し、二つの相対性論によって時間と空間の概念を明確にしたアインシュタイン、はその後の量子理論には懐疑的な姿勢に終始し、相対理論から導かれるブラックホールについても、当初否定する論文を発表し、宇宙の膨張を止めるために導入した ”宇宙項” を、後にハッブルの発見を認めて取り下げたが、20世紀末の ”ダークエネルギー” の発見により復活する等々、この100年余り、理論物理学の分野で神の如き存在となった。
そのアインシュタインの1935年の二つの論文、”EPR論文”と”ER論文” とが21世紀になって、”時間と空間” の創成という、いわば、究極の難問の解決の糸口として再び脚光を浴びている、という事実にただただ感嘆の思いを抱かざるを得ない。
というのが、今回の拙文の公開の動機です。
内容が内容だけに、全て、日経サイエンスの記事の抜粋の羅列に過ぎませんが、しかし、20年余に及ぶ、難解極まる様々な論文を、何とか整理して、まとめたものではあります。
参考記事. : 全て日経サイエンスから ;
2002年12月号 | 時間とは何か | G. スティックス |
時は流れない | P. デイビス | |
時間はどのようにして始まったのか | 佐藤勝彦 | |
2003年11月号 | ホログラフィック宇宙 | J. D. ベッケンシュタイン |
2006年2月号 | 重力は 幻なのか | フアン・マルダセーナ |
2008年9月号 | 時間の矢の宇宙論的起源 | S. M. キャロル |
2009年6月号 | 量子もつれが相対論を脅かす | J. Z.アルバート R. ガルチェン |
2010年9月号 | 時間は存在するか? | C. カレンダー |
2013年4月号 | ひも理論で語る物質の科学 | S.サチデフ |
2013年7月号 | 特集 量子の地平線 揺らぐ境界 非実在が動かす実在 |
谷村省吾 |
情報から生まれる 量子力学 | 木村元 | |
Qビズム 量子力学の新解釈 |
H.C.フォン・ベイヤー | |
2015年7月号 | 時空の終端 ファイアウォール | J. ポルチンスキー |
2017年1月号 | ワームホールと量子もつれ 量子時空の謎 |
J. マルダセーナ |
ホログラフィー原理を解く エンタングルメントエントロピー と笠・高柳公式 |
中島林彦・大栗博司・高柳匡 | |
2019年2月号 | 量子もつれ実験実証 最終決着 ベルの不等式破れる |
|
R. ハンソン K. シャルム | ||
アインシュタインの夢ついえる 測ってない値は存在しない |
谷村省吾 | |
2022年6月号 | 創発する時空 量子情報がもたらしたパラダイム |
A. ベッカー |
「時空の創発」 ってどういうこと ? | 細谷暁夫 古田彩 | |
2023年11月号 | ホログラフィック宇宙 時空の本質に迫った四半世紀 |
A. アナンサスワーミー |
2023年12月号 | 量子もつれは何を語るか ベル不等式が語る実在・局所性・自由意志 |
木村元 古田彩 |
世界は局所的かつ、実在的、ではない | D. ガリスト |