宝石読本

 

5.帝王の宝石 − エメラルド ー

 

 I 緑柱石の仲間たち
   エメラルドという宝石はご存知ですね ? 澄んだ空色のアクアマリンという宝石もご存知と思います。
 では、若葉色のベリル(グリーン・ベリル)はご存知ですか ? あるいは黄金のヘリオドール, それからピンクのモルガナイト、さらに紫を帯びたルビーのようなレッド・ベリルは如何でしょう。あるいは無色透明なゴッシェナイトは ?
エメラルド
結晶: 2cm コロンビア
ルース 1.68ct ザンビア
アクアマリン
結晶 5cm アフガニスタン
ルース  4.6ct ブラジル
グリーンベリル
結晶  9cm ブラジル
ルース 10.9ct ブラジル
ヘリオドール
結晶 34mm  ブラジル
ルース 12.3ct ウラル山脈

 

モルガナイト
結晶 71x50mm モザンビーク 
 ルース 7.5ct  ブラジル
レッドベリルの結晶 16mmと
ルース 0.51ct 
ユタ州 アメリカ
ゴッシェナイト
結晶 5x3cm 松藩 四川省
ルース 2.6ctx2  ブラジル
緑柱石結晶(アクアマリン)
7x3cm アルタイ山脈
  実はこれらはいずれも緑柱石という美しい名前の鉱物の色違いの結晶につけられた名前です。
緑柱石は珪酸アルミニウム・ベリリウムの化合物で、純粋な緑柱石は無色透明でゴッシェナイトと呼ばれます。 が、そうした純粋な結晶はむしろ稀で、殆どの緑柱石には不純物として、鉄やマンガンなどの金属イオンが含まれ、それによって、下記の様に名前が変ります ;
名 前 発色の原因・仕組み
 グリーン・ベリル  ニ価の鉄イオンと三価の鉄イオンとの組み合わせ
 アクアマリン 淡青  ニ価の鉄イオン
 ヘリオドール 金色  三価の鉄イオン
 モルガナイト ピンク・橙  ニ価のマンガンイオン
 エメラルド エメラルド緑  クロム・ヴァナジウム・鉄イオンとの組み合わせ
 レッド・ベリル 赤.赤紫  三価のマンガンイオン
 このように同じ鉱物が、そこに含まれる金属イオンの不純物によって多彩な色合いを見せる例はルビーとサファイアの様に他の宝石にもありますが、とりわけ緑柱石は美しい色合いの多様な変種があります。
 中でもエメラルドは他に類を見ない輝かしいエメラルド・グリーンで古代から愛好されて来ました。
といっても、世界的にエメラルドの産地は極めて限られており、生産量も少なく、ごく一部の王侯貴族しか入手できない貴重な宝石でした。

1. 古代のエメラルドの歴史
  様々な文献や,博物館に残されている宝飾品等から、エメラルドは既に紀元前2000年頃(もっと古く紀元前4000年頃まで遡るという説もあります)には宝石として使われていました。  
 エメラルドという言葉の語源は定かではありません。巷の本にはギリシア語のスマラグドスが語源とありますが、ギリシア語にはさらに古い,恐らくセム語系(アッカド語,アラム語、アラビア語、ウガリト語等)の言葉から入ったと考えられています。 古代のメソポタミアやエジプトの遺跡からもエメラルドの装飾品が発掘される、非常に古い時代から知られていた宝石です。
ヘレニズムの時代に美しい色合いの宝石が大変珍重される様になりましたが、とりわけエメラルドはギリシア人に最も好まれた宝石でありました。
 続くローマ帝国にも最も人気の高い宝石で、ヴェスヴィアス火山に埋まったポンペイの遺跡からもエメラルドが発掘されています。 またローマの皇帝ネロ(紀元37−67)がエメラルドで出来た単眼鏡を愛用していたと伝えられ、今日ドイツ語で眼鏡を意味するBrilleという言葉は、それがネロのベリル(緑柱石)の眼鏡を語源とすると考えられています。
 さて現在でこそエメラルドの産地は世界各地にありますが、紀元前のエメラルドが何処で採掘されたものか、大変興味深い質問で、様々な説がありましたが、近年それがようやく明らかになりました ;

従来から下記の3ヶ所の可能性が指摘されていました :
1)エジプトのルクソールの東南東およそ100kmの紅海沿岸に古代に存在したエメラルド鉱山
 この鉱山はクレオパトラの鉱山とも呼ばれ、紀元前20世紀から13世紀頃まで、3000年以上もの間採掘されていました。その後鉱脈が枯渇し、18世紀の半ば頃まで散発的に採掘が行われた後に放棄され、忘れられていました。
 1816年に再発見されてからは鉱山再開のための調査が幾度となく試みられたとのことです。結局それは成功には至らなかったのですが、詳細な現地調査が行われて、およそ20km四方の鉱区に数ヶ所の鉱山の跡が発見され、過去3000年の年月を通して大規模な金とエメラルドの採掘が行われてきた事が明らかになりました。
 
Wadi Zabara Mine
古代エジプトの ”クレオパトラ” 鉱山跡       :        Gebel Sikhbeit                          Umm Kabu Mine
Wadi Um Kabu area

 

エジプト‐ローマ時代の
ネックレスとギリシア
‐ローマ時代の指輪
エジプト産エメラルドと
天然真珠のネックレス
3〜5世紀 大英博物館
ローマ皇帝ネロの肖像
といわれるエメラルド 
高さ22mm 紀元1世紀
クレオパトラの鉱山産の
エメラルド結晶
カイロ博物館
 世界各地に残された”クレオパトラの鉱山”産のエメラルド製品と今日でも僅かに産出する半透明のエメラルド、さらにこうして明らかになった過去3000年に及んで採掘されてきた鉱山の様子等から、この鉱山は相当のな量の品位の高いエメラルドを産出して来たと言って間違いないでしょう。
2)古代バクトリア地方
 バクトリア地方とは、紀元前六世紀頃からメディア王国の一部として歴史に現れてくる王国で、紀元前五世紀にはアケメネス朝ペルシアの一部、紀元前四世紀半ばにはアレクサンドロス大王(前356−323)の征服地に、紀元前四世紀頃はセレコウス朝ペルシアの一部に、紀元前三世紀頃はトカラ(中国の歴史では大夏国)、その後紀元前二世紀頃はソグディアナ(中国の歴史では大月氏)として記録に残る土地です。
現在のアフガニスタン北部とタジキスタン西部に当たる土地といえば大体見当がつくでしょう。 
 この地方には現在でもアフガニスタンのパンジシール渓谷(Panjshir)にケンジ、ブスマル、ミケニの主要な3鉱山の他に凡そ400平方kmの範囲に無数の鉱脈が存在し,新たな鉱山が開発されています。
 パキスタンのスワット渓谷ではミンゴラ地方にミンゴラ、シャモージ、チャルバフ、シャングラ地方にグジャール・キリとマカッドと5つのエメラルド鉱山が存在します。
 現在稼動しているのは1950年代末から1970年頃に発見された新しい鉱山ですが、しかし鉱脈はこれらの鉱山の周囲の広範な面積に発見されます。  シルクロードの重要な交通の要所でもあり、紀元前3000年頃から今日に至るまで、世界で最も高品質のラピスラズリの産地であるサーレサン(Sar-e-Sang)にも近いこれらの地で古くからエメラルドの採掘が行われていた可能性は大いにあります。
アフガニスタンパンジシール渓谷のエメラルド鉱山
 Mikeni鉱山 Buzmal 鉱山 エメラルド結晶

 

パキスタンのエメラルド鉱山
スワット谷ミンゴラのエメラルド鉱山 
背景はヒンズークシュ山脈
グジャール・キリ鉱山 滑石片岩上のエメラルド群晶 
スワット渓谷
ウィーン自然史博物館
グジャールキリ鉱山のエメラルド
3個で4.49ct
   3)オーストリア、ザルツブルグの南約100km、アルプスのハ−バッハタール(Habachthal)
 ヨーロッパ・アルプスには激しい造山活動に伴う変成鉱床、交代鉱床、熱水鉱床、そしてペグマタイト鉱脈と、多様な鉱脈が形成され、一つの山にこれらすべての鉱床と実に多彩な鉱物を産する例が珍しくありません。 なかでもオーストリアのハーバッハタールは様々な鉱物と共にエメラルドの産出でも知られています。今日ではこの地を訪れるのは鉱物採集家だけですが、18世紀末頃から鉱山として本格的な採掘活動が行われていました。
ハーバッハタールの光景 Grau Kogel山 2834m
鉱脈は2300m地点
鉱物コレクター ハーバッハタールのエメラルド
幅15cm ロンドン自然史博物館
  エメラルド鉱脈は南北に約15km程延びるハーバッハ谷の中ほど、グラウ・コーゲル山の2300m地点にあります。写真の結晶は大変見事なものでコロンビアの最上級の結晶と肩を並べる水準です。もちろんこんな逸品は極めて稀ではありますが、この鉱床の潜在的な質の高さを示す例で、これなら眼鏡のレンズにとして使える結晶が産出した可能性は十分考えられます。
 1903年当時の鉱山稼動時には半年の間に68000カラットの結晶が採集されたという記録があります。 また1975年には49カラットの大きな結晶が発見され、それからカットされた10カラットのルースをオーストリアのウィーンにある自然史博物館が2万フラン(当時の為替レートで約700万円)で買い取っています。 
 この鉱山は恐らくローマ時代から知られていました。ユリウス・カエサル(前100−144)の軍団がアルプスを超えてガリアに攻め入った頃には恐らく、ローマ人によってこの鉱山が知られていたと思われます。
 当時のローマ軍団は単なる軍事的な征服だけではなく、街や道路、橋、水道の建設や鉱山開発など、征服した土地の全面的な開発を積極的に行っていたからです。
エメラルド産地の特定

 
今日では鉱物結晶を詳細に分析する様々な技術が開発されています。
例えば赤外線吸収特性電子線走査顕微鏡での観察、あるいは結晶に含まれる酸素18と酸素16の、またはルビジウム87とストロンチウム86の同位体比比較等にて、結晶の産地別の特徴や生成年代の特定等が可能となっています。
 これらの分析は主にフランスやイタリア、イスラエルなどの大学や研究所にて1990年代に入って盛んに行われる様になりました。 その結果は世界各国の宝石学協会誌に発表されています。 また2001年5月号の日経サイエンスにも、エメラルドに含まれる水分の酸素18と酸素16の同位対比から古代のエメラルド産地を特定する記事が転載されましたので読まれた方も多いと思います。
 これらの研究の成果によって、世界各地で発見された古代の装飾品に使われているエメラルドと、現在の産地の特徴とを比較する事によって、古代のエメラルドが何処の鉱山からもたらされたかが明らかになりました。
 その結果は、古代のエメラルド製品の大半がエジプトの鉱山産と判明しましたが、しかし中にはアフガニスタン、パキスタン、そしてオーストリア産のエメラルドも含まれていました。
 いずれも今日でさえも交通が不便な地ですが、紀元前の遥か昔にそんな場所でエメラルドが発見されて大規模な鉱山が運営され、数千kmの距離を越えて運ばれていたという事実には驚くしかありません。
2. 緑柱石の成因  
   同じ化学組成の緑柱石でも様々な異なる色合いがあるのは、それぞれに成因が異なるためです。
グリーン・ベリル、ヘリオドール、モルガナイトとアクアマリンとはペグマタイト岩脈にトパーズや、トルマリン,ガーネット等の結晶と共に普通に発見される鉱物です。
 日本でもかつては茨城県の山の尾、福島県石川郡、岐阜県の苗木等のペグマタイト鉱脈に標本級の結晶が発見され、日本の鉱物コレクターの憧れの鉱物でありました。 しかし今日では鉱脈が枯渇してしまいましたので、日本で鉱物コレクターが緑柱石を自分の手で採集するのは殆ど不可能となってしまいました。
 しかしブラジルを始め、ウクライナ、カザフスタン、フィンランド、パキスタン、マダガスカル、ナイジェリア、それに新しくインド、ナミビア、中国、アルタイ山脈等、世界各地に美しい結晶の新しい産地が次々と発見され、宝石級の結晶を容易に入手出来るようになリました。
ペグマタイト

 巨晶花崗岩、あるいは鬼御影とも言われます。花崗岩の主成分鉱物の石英、長石、雲母の結晶が巨大な成長を遂げた岩脈です。
 柘榴石、トパーズ、トルマリン、スポジュ‐メン等の結晶や、ウラン、タングステン等の鉱物を含み、宝石や金属資源の鉱脈となることもあります。
 霞石閃長岩、閃緑岩、輝緑岩などもペグマタイト鉱脈を形成しますが、一般的にはペグマタイトと言えば花崗岩と考えても良いでしょう。
 スリランカ、ビルマ、パキスタン、アフガニスタン、タンザニア、マダガスカル、アメリカのサン・ディエゴ、メイン州、ブラジルのミナス・ジェライス州などの宝石産地は主にペグマタイト鉱床に宝石結晶が成長したものです。
 日本でもかつては福島県石川町、茨城県山の尾、妙見山、岐阜県苗木、福岡県の長垂山等に電気石、柘榴石、緑柱石、トパーズ等の美しい結晶を産出したことがあります。
 

   
長石、石英、雲母の結晶中の宝石質のトルマリン
その上部に並ぶのは黒いトルマリンの結晶

Himalaya Mine, San Diego, California
   かつてマダガスカルでは長さが18m、直径が3.5m、重さが380トンもの巨大な緑柱石の結晶が発見されました。 またモンゴルのペグマタイトにも10mに達する緑柱石や電気石が発見されるそうです。そんな大きな結晶が透明な宝石級であったら壮観でありましょう。 残念ながら、一般に大きな結晶は不純物を多く含み不透明なので宝石にはなりませんが、軽金属ベリリウムの原料として採掘されます。 
 リチウムに次いで軽い金属のベリリウムは1797年に未知の金属化合物としてフランスのボークランによって発見されましたが、元素として分離は出来ませんでした。この化合物は甘味を持つためギリシア語の”glukos=甘い”に因んで初めはグルシナムと呼ばれました。 
 その後1828年になってようやく、ドイツとフランスとで緑柱石から単体の元素として分離され、緑柱石=ベリルに因み,この元素がベリリウムと名付けられました。
 ベリリウムの地殻中の含有率は2ppm(0.0002%)と、リチウムとコバルトの20ppm、銅の56ppm、クロムの100ppm等と比べて低く,さらにイットリウムの30ppmやネオジウムの38ppmといった希土類元素と比べても低い元素です。
 そんなにも稀なベリリウムを主成分とする緑柱石が、ペグマタイト鉱脈にはありふれた鉱物で、しかも時には1mを越すような大きな結晶として産出するのは不思議なことです。
 その訳は、ベリリウムが花崗岩が最終的にペグマタイトに成長する過程で、成分濃度が凝縮される熱水に含まれるからです。
 因みにウラン(2.4ppm)、錫(2.2ppm)やタングステン(1ppm),さらに金(0.0011ppm)銀(0.07ppm)白金(0.003ppm)も地殻濃度が低い元素ですが、ベリリウム同様に熱水中での濃縮作用によって鉱脈となるので、鉱山としての採掘が可能になります。
即ち,もし地球に水が無かったなら、これらの金属も採掘可能な鉱床として存在する事はなかったでしょう。
もちろん、水が無ければ人間を含む全ての生物も存在出来ませんから、金属鉱床の有無など大した問題ではありませんが。
エメラルドの成因と産地
 エメラルドは他の緑柱石の様に普通のペグマタイトには発見されません。
それは、緑柱石に主に0.1〜1%程度の不純物のクロム(あるいはヴァナジウム)がふくまれることで、鮮やかな緑色のエメラルドとなるのです。
 ところがクロムは緑柱石が成長する珪酸分に富む火成岩ではなく、全く性質の異なる珪酸分の少ない超塩基性と呼ばれる種類の岩石に含まれるのです。 
 即ち、緑柱石にクロムが含まれることは普通には(地質学の常識では)起こりません。このことはいずれもクロム発色のルビーやアレクサンドライトにも当てはまります。
 とは言え、現実にクロムを含む緑柱石は存在するのですから、普通では起こらないことが起きたことになります。
それは、相反する酸性岩脈と超塩基性岩脈とが接触したり,お互いに貫入するといった出来事を想定しなければなりません。 そのような事態はしかし、大陸移動や造山運動といった地球規模の大規模な地殻変動でもなければ起こるものではありません
 事実、世界でエメラルドが発見されるのは下記のような、大規模な造山運動がかつて起こった地域や、あるいは現在も進行中である地域に限られています。
  世界のエメラルド産地

   濃い緑の印の国が主要な生産国で、淡い緑の印の国は量的にはそれほど重要ではありません。
 生産量ではコロンビアが世界の70%、次いでブラジルが20%、そしてザンビアが10%と、この3ヶ国で世界のエメラルドの殆どを産出します。
 金額的には良質の結晶を産するコロンビアが90%、と際立って多く実質的にエメラルドと言えばコロンビアと言っても過言ではありません。 
 このようにコロンビアのエメラルドが質、量共に、他の産地を圧倒するのは下記に述べる様に他の地域とは全く異なる成因でエメラルドが出来るためです。

   
1.

 アンデス山脈のコロンビア、ヒマラヤ,カラコルム,ヒンズークシュ山脈,アルプス山脈等、大陸と大陸やプレートとが衝突して、巨大な山脈が現在も形成されている地帯。 これらの造山運動は数千万年前から起こり、現在も続いている新しい地殻変動です。これらの地域からのエメラルドは数千万年以下の若い生成年齢のものです。
2.

 マダガスからアフリカの東海岸を縦断して、エチオピアからアラビア半島にまで延びる数千kmの長さのモザンビーク造山地帯。 この地域で発見されるエメラルドの年齢はマダガスカル、タンザニアは数億年、ザンビア産は12億年、ジンバブエ産は26億年と大変古い年代に結晶したものです。
3.

 ウラル山脈、ブラジル高地,オーストラリアなど、10億年〜30億年の古い時代の造山運動で形成された地帯。  ブラジル産のエメラルドも数億年〜25億年と大変古いものです。ウラル産のエメラルドの資料はありませんが,恐らくブラジルと同じ年齢を持つと考えられます。
エメラルドの成因
1. 

 最も普通に見られるエメラルド産地はペグマタイト性の花崗岩マグマが滑石片岩や蛇紋岩などの塩基性の岩盤を貫き、そこに含まれるクロム分を採り込んだ緑柱石がエメラルドとして結晶する場合です。 
 ブラジルのバイア州のサリニ‐ニャ鉱山、カルナイーバ鉱山、ゴイアス州のサンタ・テレジーニャ鉱山、インド、南ア連邦、ジンバブエ、タンザニア、ザンビアやマダガスカル等がその例です。
. 

 次に広域変成作用で出来た雲母片岩や滑石片岩、緑泥石片岩の中にエメラルドが結晶する例です。クレオパトラの鉱山を始め、ウラル山脈の鉱山、オーストリアのハーバッハ・タール、ブラジル、ミナスジェライス州のベウモンチ、カポエイラナ鉱山のエメラルド等、多くのエメラルドがこのような成因で出来たものです。
3. コロンビアのエメラルド
 前述の成因によるエメラルドはいずれも、激しい接触作用や変成作用で出来るため、黒雲母や角閃石などの包有物を大量に含み、また結晶自体も小さくて亀裂も多く、不透明で宝石質の結晶は僅かしか採れません。
 一方コロンビアの鉱山の場合は、比較的大きく、不純物が少なくて透明な結晶を産出します。エメラルドは黒色の炭素質石灰岩や頁岩の地層中の白い方解石の岩脈の中に結晶しています。
 コロンビアのエメラルドは首都ボゴタの東およそ100km程の地点に有名なチボールやガチャラ鉱山があり、それから北西へ幅30km、長さ100kmのエメラルド・ベルトとも呼べるエメラルド鉱脈があります。そのベルトの最北部に最も有名なムソー、コスケス、ペーニャス・ブランカス等の大鉱山が隣接しています。 鉱山は主なものだけで30近くありますが、ほぼ赤道直下の、標高600m〜2300mの温帯〜熱帯性の密林に覆われている山岳地帯に無数のエメラルド鉱脈が存在していると考えられます。
 エメラルドを産出する東コルジエジャ山脈は3000〜4000万年前頃、現在の南アメリカ大陸の東の海底にあった厚い堆積層がナスカプレートと南米プレートとの衝突で5000mも隆起して出来た山脈です。 主に片岩と石灰岩からなる地層に炭化物を含む黒色片岩が貫入し、地下から断層を通して比較的低温の(100℃〜300℃程度であったと考えられています)塩分に富む熱水がクロムやベリリウムを溶かし込んで、断層の中を走る方解石、ドロマイト、黄鉄鉱等からなる鉱脈の比較的に自由に成長できる空間にエメラルドとして結晶したと考えられます。 このようなコロンビアのエメラルド鉱床に特有の条件が、包有物が少なく大きく透明な宝石質の結晶が大量に産出する理由です。

 

コスケス鉱山 黒色頁岩中を貫くエメラルドを含む方解石脈 1759ctの結晶 コスケス鉱山
 コロンビア国立銀行 Bogota   
コロンビアのエメラルドの歴史
  コロンビアのエメラルドは10世紀頃からインカによる採掘が行われていて、メキシコ、ペルー、チリ等、マヤやインカ帝国の広大な支配地域各地に伝播し、貴重な装飾品として使われていました。 多くの場合、結晶を磨き、穴をあけてペンダントとするなど、単純な加工で使用されていました。
南米、プレ・コロンビア時代のエメラルド装飾品の出土品
Muisca族副葬品
スミソニアン博物館
ボゴタ 黄金博物館 パナマ出土 ペンシルヴァニア大学博物館 Guillermo Cano
Collection

 1492年のアメリカの発見は、本来アジアにある黄金の国ジパングへの最短航路を目指しての航海で思いがけなく西欧人による新大陸の発見に至ったものです。 そして、アジアに辿りついたと思った彼らの最大の目的はエル・ドラド(黄金郷)の発見でありましたが、それは金だけではなく、彼らが征服した各地の原住民が持っていたエメラルドも最も熱心に求められた宝石でありました。 そしてスペイン人は1530年代には早くもコロンビアのエメラルド鉱山の存在を嗅ぎつけて、1537年にソモンドコ鉱山(現在のチボール鉱山)をつきとめ、その北方にはさらに豊かなエメラルドの産地があることを知りました。 しかしその地は最も勇敢で好戦的なムソー族の支配する土地でもありました。
 スペイン人は早速ムソー族の征服に乗り出しましたが、ここでは思いもよらぬ抵抗に出会いました。 他の種族は銃や鋼鉄の剣で簡単に征服できましたが、ムソー族は熱帯のジャングルにて、罠や落とし穴、無数の砦を築いてゲリラ戦を展開して抵抗を続けました。 20年に及ぶ度重なる遠征の果てに、最後にスペイン人はヨーロッパから連れて来た猟犬を駆使してようやくムソー族の征服にこぎつけましたが、それにしても凄まじいまでのエメラルドへの執念でありました。
 これが今日に至るまで、質、量ともに世界のエメラルドの頂点に立つムソー鉱山の発見と征服までの顛末です。
  当時エメラルドを探していたのはスペイン人だけではありませんでした。
当時スペインと共にアメリカ大陸での覇権を着々と進めていたポルトガル人も、手に入れたブラジルにてエメラルドを探しに探す事,何と400年、1963年になって、ようやく鉱脈の発見を果たしました。
 しかしその間数次に渡る遠征隊を繰り出し、ミナス・ジェライスと言う、世界で有数の宝石と金属鉱山地帯を発見に至ったのですから、その苦労は十二分過ぎるほど報われたと言えましょう。

コロンビア・エメラルドの行方
   コロンビアのエメラルド鉱山を手に入れたスペイン人はインディオを奴隷として、彼らの人口が数年の内に激減するほど酷使してエメラルドを採掘しました。 
 しかしながら、今日ではスペインはもちろんヨーロッパの他の国々でも、めぼしいエメラルドのコレクションは存在しません。
あのコロンビアからの膨大なエメラルドは一体何処に消えてしまったのでしょうか ?
 実は、膨大なエメラルドの逸品は,トルコとイランと、ムガール帝国に吸収されたのです。
トルコに残るエメラルド

 トルコでは、映画にもなったトプカピ宮殿のエメラルドの短剣等、最高級のエメラルドを惜しみなく使った宝飾品のコレクションを見ることが出来ます。 
 現在,スミソニアン博物館に展示されているフッカー・エメラルドは、トルコのスルタン Abdul HamidU世がベルトのバックルとして身につけていたもので、後にティファニー宝石店が入手してHooker夫人のブローチ用に作りなおしました。
この75カラットのコロンビア産のエメラルドはこの大きさとしてはインクルージョンが皆無の無傷の逸品として有名です。
トルコ・イスタンブールのトプカピ宮殿所蔵のエメラルド装飾品
柄に大粒のエメラルドを鏤めた短剣
長さ 35cm
エメラルドのケース
 3.5x3cm
長さ39cmの宝石の筆入れ Hooker Emerald
75ct
スミソニアン自然史博物館

ムガール帝国のエメラルド

 

   ムガール帝国と言えば,インド・イスラム建築を代表する、あのタージ・マハルの壮麗な建物を思い出される方も多いと思います。 しかしムガール帝国がモンゴルの末裔である事は意外に知られていません。
ムガールとはモンゴルのペルシア語の発音です。
 1206年にチンギス・ハーンが大帝国を建設して以来、モンゴル系の帝国はエジプトのマムルーク朝,トルコのオスマントルコ朝、ロシアのキプチャク汗国、中国の元、等々、ユーラシア大陸の大半を制するまでに拡大しました。中央アジアでも1460年にチムール大帝がサマルカンドを中心に建設した帝国は1507年に崩壊しましたが,北インドに逃れた子孫のバブールが建てたのがムガール帝国です。
 帝国は1858年,イギリスの侵略による植民地化で崩壊するまでインドの大部分を支配しました。 その間ムガール帝国の繁栄はタージ・マハルが示す通りですが、帝国のマハラ‐ジャ達は有り余る財力を宝石、とりわけエメラルドの収集に傾け、コロンビアの最上のエメラルドがインドに流れ込んだのでした。
 残念ながら、後のペルシアの侵略やイギリスの植民地支配などによりエメラルドの逸品のコレクションは散逸してしまいましたが、僅かに博物館などに残る収集品から、往時の繁栄が偲ばれます。
 左のエメラルドはムガール・エメラルドとも呼ばれるコロンビア産の逸品です。
1695年ムガール帝国の皇帝 Aurangzeb が儀式用のターバン飾りに作らせたもので、表にウルドゥ語でコーランの1節が、裏面に花模様が彫られています。
5x3.8x3.5cm 218ct
Alan Caplan Collection

 

イランのエメラルド・コレクション
 イランにもまた、トルコに劣らないほどの膨大なエメラルドのコレクションが残されています。
下記の写真はイラン銀行の博物館にある宝飾品や結晶のコレクションです。
これらは元々ペルシアが所有していたものの他に1739年
ペルシアのナディール・シャーがインドのムガール帝国を侵略し、有名なデリーの略奪にて、マハラジャ達の財宝を奪ったものです。
歴代のペルシア(イラン)王室のエメラルドコレクション





イラン銀行地下の宝石展示室
巨大な結晶や未加工の原石が
無造作に置かれている

紛失を防ぐため5万個以上の
宝石を鏤めた黄金の地球儀 
直径45cm、高さ110cm重さ35kg
 海の部分がエメラルド
ダイアモンドとエメラルドの
小箱 6x5cm
イランのパーレヴィ国王が
戴冠式用に作った王冠
 古いエメラルドの所蔵品が使われている
   トルコやペルシア,インド等に、こうした貴重なエメラルドのコレクションが残されているのは、二つの理由があります ; 
一つは、13世紀から17世紀にかけて、世界の文明と経済の中心はインドのムガール帝国やペルシア帝国、そしてスレイマン大帝によって頂点を極めたオスマン・トルコ帝国等のイスラム圏にあったからに他なりません。 
 何時の時代でも貴重な品々は経済力のある国に集まるのは歴史の必然です。
 次に、こうしたイスラム圏にあっては、オアシスの象徴として緑は聖なる色とされています。イスラム国家の国旗が全て緑色なのはそのためです。 こうした国々ではエメラルドの輝かしい緑色がとりわけ珍重されたのです。
 強大な経済力を誇っていたこれらの帝国の支配者達がどれほどの対価を払ってエメラルドを手に入れようとしたかは想像に難くありません。
 そして、大半のエメラルドこそは地球の反対側にあるコロンビアから太平洋を渡ってスペインへ、さらに地中海を経由してアナトリア高原やアラビア半島の砂漠を越え,さらにザグロス山脈とイラン高原からアフガニスタンの山々を経てヒンズークシュ山脈を越える長大な旅の果てにインドに至ったのでありました。
コロンビア・エメラルドの盛衰
  スペイン人は征服したムソー族を奴隷としてエメラルド鉱山の採掘を始めましたが、苛酷な労働に加えて、水疱瘡等ヨーロッパ人がもたらした伝染病の蔓延に、免疫を持たないインディオの人口はたちまちの内に激減し、生産は減少の途を辿りました。
さらに,鉱脈の枯渇や大落盤事故等で採掘は何度も中断と再開とを繰り返して20世紀に至りました。
 20世紀始めからコロンビア政府はチボール以外の鉱山の国有化を進め、1946年には国立銀行に管理を移し、1966年以降は再び国家管理に移す等、経営が目まぐるしく変りました。 
 しかし鉱山の国家管理は密輸の横行や鉱山労働者の労働争議,さらに介入した軍隊との衝突による数千人の死者と数百万ドルの赤字を出すと言う結果に終わり、1973年に民間経営に移管されました。
 この間、毎年少なくとも数十万カラット,金額にして数千万ドル相当のエメラルドの生産があったにもかかわらず莫大な赤字を出すと言う不可解な結果は、国家による鉱山経営の効率が如何に悪いものであったかを物語ります。
麻薬マフィアとの死闘
  エメラルド鉱山経営の民間への移管後に頭角を現してきたのが,ダイアモンドの世界のセシル・ローズに相当する,ビクトール・カランサでありました。 彼は11歳で鉱夫になって以来、エメラルド鉱山一筋でたたき上げて来た男ですが、民営化後に着々と各地の鉱山の経営権を手に入れ、1980年代初めにはコロンビアのエメラルド鉱山の50%を支配するまでになっていました。
チボール、ガチャラ、キパマ等、主要鉱山の経営者が次々と暗殺に倒れて行く中で、FARC(コロンビア革命軍を名乗る左翼ゲリラだが,誘拐を主な生業とするテロ組織)や同じく革命軍を名乗るテロ組織のM-19も交えた血みどろの鉱山支配権争奪の戦いを勝ち抜き、1984年,遂に最大のムソー鉱山の支配寸前までこぎ着けました。
 ところが彼の前に立ちはだかったのが、当時コロンビア最大の麻薬マフィア、コロンビアの麻薬取引の中心地メデジン・カルテルのNo.2の地位にあり、カルテル私兵軍の指揮官、ロドリゲス・ガチャ、通称エル・メヒカーノ(メキシコ野郎)でありました。
 メデジン・カルテルは麻薬取引で膨大な利益を挙げていましたから、何故エメラルドにまで手を出す気になったのかは定かではありませんが、恐らく、ロドリゲス・ガチャとしては、常に政府軍や米軍相手に逮捕や暗殺と背中併せの麻薬よりは,エメラルド鉱山の支配の方がよりスマートで安全なビジネスと考えたのでしょう。
 かくして、歴史に残るコロンビア・エメラルドの支配権を巡る最後の戦いが始まりました。 それはヤクザの抗争と言った生易しいものではなく、まさに戦争と言うに相応しい規模の戦いでありました。
 コスケス鉱山の経営者の暗殺に始まり、5年間で双方に3000人を超える死者を出す戦いは1989年に入り一層エスカレートしました。 カランサの共同経営者が18人の護衛もろとも皆殺しの襲撃に遭い、さらに近親者の誘拐と暗殺、マフィアによって鉱山に送り込まれた暗殺団による無差別殺戮、続いて自宅や所有する鉱山会社の建物が大型トラック一杯に積んだダイナマイトで吹き飛ばされると言う凄惨な挑発を受けるに及び、カランサもガチャに全面対決の最後通告を宣言するに至りました。
 (この有様は、ハリソン・フォードが主演した映画、”今、そこにある危機”に、生々しく描かれています。映画ではアメリカと麻薬マフィアとの戦いでしたが、実際は、そこにエメラルド利権と、左翼革命軍も交えた四つ巴の戦いとが当時のコロンビアで進行していたのです。 私事になりますが、当時,私は中南米全域のビジネスを担当していて(麻薬でもエメラルドでもありませんでしたが)隣国のパナマに駐在していました。コロンビアは重要市場の一つでしたから、ボゴタやメデジン,カリの市街は毎月訪れていましたので、当時の出来事は身をもって体験したのです。 もっとも当時のパナマも悪名高いノリエガ将軍の支配下にあり、米軍の侵略とその後の市街戦やら無政府状態での略奪やら、同じような戦争状態でありました)
 資産十億ドルのカランサと年商数十億ドルの麻薬マフィアと,十分過ぎるほどの資金と重装備の武力とを持つグループの全面武力衝突が起これば国中が戦場となるのは必至でしたから(既に大統領府治安取締局や定期航空便の爆破等々、テロに巻き込まれて一般人の死傷者は続出していて、半ば戦争状態にありました)、コロンビア国中が騒然となりました。
 しかし、まことに幸いな事に,彼らの対決はあっけなく幕を閉じ、最悪の事態には至りませんでした。
 1989年12月に、政府の麻薬取り締まり部隊との銃撃戦でガチャは息子と共に射殺されたからです。 その後カルテルの首領、パブロ・エスコバルも逮捕されてメデジン・カルテルは崩壊しました。 もちろんその跡目は、もう一つの都市、カリの麻薬カルテルが継ぎましたが、彼らはエメラルドには興味を示さず、ようやくエメラルド鉱山を巡る争いに終止符が打たれました。  メデジン・カルテルの壊滅を機に、1990年7月、それまで反目していた、コロンビアの4大エメラルド鉱山主達との間にも和平協定が結ばれ、スペイン人の征服以来、四世紀に及ぶコロンビアのエメラルドの血塗られた歴史にようやく平和な日々が訪れたのでした。 
 それ以来、ビクトール・カランサの主導でダイアモンドのデ・ビアスに倣った国際的なエメラルド取引センターの設立を目指してそれぞれ生産量で世界第2位のブラジルと第3位のザンビアとに働きかけを始めました。
 公正なエメラルド品質の格付けと、取引の場の設立とによって、流血と犯罪と密輸等々、過去のエメラルドのイメージを払拭して宝石としてのエメラルドの地位を強固なものにしようとの意図でありましょう。
 世界市場におけるコロンビアのエメラルドの独占的な立場を背景に,その試みは長期的には成功すると考えられます。それは
また、消費者にとっても好ましいことであります。
 何故なら、宝石そのものにまつわる,贋物や騙しの手口が横行し、またその流通や取引の不明瞭さは、他の宝石とは比べ物にならないのが、エメラルドの世界なのです。

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