大地を掘る人々(Garimpeiros)

 

 

1.金とダイアモンド (Gold and Diamond)

 

金を掘る人々 (Gold prospectors)
上・左 ブラジル,Serra Peladaの漂砂金鉱床 1980年
( Alluvial gold mine at Serra Pelada, Brazil, 1980)
アラスカ・クロンダイクへ向かう人々の群れ 1889年
(Prospectors climbing "The icy steps to hell"
on Chilkoot Trail, Alaska, 18908)
 写真は赤道直下のアマゾン河流域の熱帯雨林地帯にあるブラジル,パラナ州,セーラ・ペラーダの金鉱の労働者と,19世紀に北極圏のアラスカ・クロンダイクで発見された金鉱床へ向かう人々の姿です。
 蜘蛛の糸にぶら下がった杜子春が見た地獄の有様とはこんな光景だったに違いありません。
 ”剥ぎ取られた山”を意味するセラ・ペラーダの地名は,1970年の金鉱床発見後に押し寄せた1万人を超えるガリンペイロ達によって忽ちの内に豊かな熱帯雨林が裸にされ,巨大なピラミッドを逆さにしたような深い穴が掘られたことから命名されたと思われます。
 1985年の1年だけでこの鉱山から50トンもの金が掘り出されました。
あの佐渡金山でさえ400年間の操業で総産金量が83トン,驚異的な高品位の菱刈鉱山の推定埋蔵量230トン,年間産金量7トンと比べると,セーラ・ぺラーダの年間50トンの凄さが分かろうというものです。
 その全てがガリンペイロ達の人力で掘られ,金を含む膨大な量の土砂(推定で年間50万〜100万トン)が人力で担ぎ上げられているところが壮絶です。
 この深く掘り下げられたラテライトの脆い壁が熱帯の猛烈なスコールでどうなるのか ? 
無人の熱帯のジャングルに押し寄せた1万人余りのガリンペイロ達は一体どうやって暮らしているのか ?
 
 19世紀末にアラスカ,ユーコン川流域で発見された金鉱床を目指すゴールド・ラッシュも同様に凄まじいものでした。
写真はクロンダイクに最も近いアラスカ湾のSkagwayの港からChilcook峠を越える人々の行列です。
 国境となる峠の頂きで待ち構えるカナダ側の山岳警察は入国する人々にベーコン100kgと乾燥ジャガイモ,豆,果物,砂糖等合計50kg,小麦粉250kg,その他の食料250kg,加えてテント,寝具,衣服,採掘用のハンマー,シャベル,ロープ,調理用具,銃等々の最低必要限の荷物の携帯を義務付けました。
 港から金鉱床までは800kmあります。十分な食料も装備も持たずに出発させたなら、これらの半ば食い詰め者たちが強盗殺人に走るのは火を見るより明らかなことでしたから。
 これらの装備を抱えて道なき山や峠を越えて遥か彼方の金鉱に向かったのです。
 当時の様子を書いたジャック・ロンドンの小説,”白い牙”を映画化した中に,写真と全く同じシーンがありました。
前述の装備を抱えて道なき無人の土地を800kmも旅するには,橇を引いて行くのが唯一の方法でした。
 となれば厳冬の北極圏を強行軍するしかなかったでしょう。 さて,そのうち何人が目的地に辿りついて,金を手にした事か ?

 

ダイアモンドを掘る人々 (Diamond Prospectors)
キンバリー鉱山の歴史 (History of Kimberly Mine)
人類の掘った最大の穴
キンバリーダイアモンド鉱山

"Big Hole" of Kimberley
発見から10年後の鉱山 1876年
 1600の鉱区に下ろされたロープ
崩壊し始めた鉱区 1877年
まさに綱渡りで鉱夫を運ぶ
ケーブルカー 1905年
 ”Big Hole”と命名された南アフリカのキンバリーダイアモンド鉱床は直径が465m,深さが1097mの人間が掘った世界最大の穴です。
1867年に発見され,1914年に最後の一粒のダイアモンドを掘り尽くし放棄されるまで,硬い岩盤を掘り下げるのにたったの47年間しかかかりませんでした。
 1600にも分割された各31フィート四方の鉱区の壁はぎりぎりまで掘られ,崩壊事故が多発し始めました。
ますます深くなる穴の底への鉱夫の往復と採掘された母岩の回収は採掘後10年も得ずして深刻な問題となって,もはや個々の鉱区の持ち主には解決不可能となりました。
 ダイアモンドの採掘には巨大な資本投下による本格的な鉱山経営が不可欠となり,デ・ビアスを創設したセシル・ローズの出番となったのでした。
鉱区を目指して一斉に走り出す人々
Lichtenburg 南アフリカ 1926年
51年間ダイアモンド鉱床を探し続けた
E.Hammond 69歳 1986年
左の写真撮影の2時間後
に自殺したHammondの墓
Rushing for mining right
Lichtenburg, South Africa 1926
E.Hammond 69 years old, seeking for
diamond in vain, for 51 years.
A tomb of Hammond, commited
suicide two hous after photo
shooting.
 南アフリカのダイアモンド鉱床は現在では大半が大資本による近代的な採掘が行われています。
大規模な重力探鉱や鉱床発見後のボーリングによる経済性の検討,採算の見込みが立った場合でも鉱山開発までの大規模な投資等々,長期にわたる調査と投資に耐えられるのは巨大資本のみだからです。
 しかし,比較的簡単にダイアモンドを得られる漂砂鉱床もあり,生涯をかけて鉱脈捜しをする個人も少なくはありません。けれどもその多くは悲惨な結果に終わる例が殆どです。

 

ナミビアの漂砂ダイアモンド鉱山
ナミビア海岸の
ダイアモンド採掘
20世紀初頭,ナミビアのダイアモンド鉱山で働き,
死んで行った鉱夫達の白骨が散らばる砂浜
 ゴーストタウンとなったコルマンズコープの町
奴隷として働かされた鉱夫達の
牢獄のような狭い宿舎跡
現在のデ・ビアスの鉱山
スタッフの宿舎
 オランジェムンド郊外

 Alluvial diamond mining along Skelton Coast, Namibia. Bleached bones of slaves who were forced to work
for diamond mine, lived in a prison-like lodging and died, scatter along the beach.
right - Today a compound outside Oranjemund, town diamonds built, houses staff families.
 アフリカの西南端ナミビアの沿岸は冷たい南極環流から分かれたベンゲル寒流が北上し,その影響で世界で最も乾燥した地帯の一つに数えられます。
 スケルトン・コースト(骸骨海岸)と呼ばれたのは,激しい海流と強風とで行き交う船の遭難が絶えない名だたる海の難所であったため。
 この海岸に1908年,高品質のダイアモンドが発見されました。
当時は砂を掻き分けるだけで簡単にダイアモンドが採れたとのこと。
 しかしながら,当時ダイアモンドを掘っていたのは奴隷として連れてこられた鉱夫達で,劣悪な環境下で酷使された果てにナミビアの殺風景な砂漠に朽ち果て,文字通り,骸骨海岸に無数の白骨をさらす運命を辿りました。
 現在,海岸沿いに大規模な採鉱を行っているデ・ビアスの子会社,Namdeb社のスタッフは瀟洒な宿舎で家族と平穏な暮らしを楽しんでいます。

シエラレオネのダイアモンド
(Sierra Leone diamond)
 盗掘の取締り 反政府ゲリラにより
手足を切り落とされた子供達
普通の漂砂鉱床での採掘  原始的な川底の採掘   鉱区での争い
Armed trooper sprints
toward
an illegal miner.
Children - victims of terror domination Alluvial deposit mining Primitive mining at
deep
river deposit
A quarrel at mining
 別途"紛争ダイアモンド”にて紹介しましたが,近年アフリカのシエラレオネでのダイアモンドが世界的話題となっています。
シオラレオネは小規模なダイアモンド産出国ではありますが,高品質のダイアモンドを漂砂鉱床で簡単に採れるため,昔から盗掘と密輸とで悪名高い国です。
 さらにコンゴと並び政情が不安定で,反政府勢力がダイアモンド産地を支配して密輸により勢力を強化している事から国際的な問題となりました。
 とりわけダイアモンド採掘のために子供たちを誘拐して酷使し,その上逃げないように見せしめとして手足を切り落として恐怖による支配を行っているという残虐なやり方が世界に衝撃を与えました。
 現在では反政府勢力の問題はひとまず収まっています。 
人々が自由にダイアモンドを採掘できるようになったとは言っても,しかし鉱区での争いや,満足な装備や設備がなく,人手だけに頼る危険な採掘方が大半で,永年の内戦で荒廃した国土と人心の荒廃から以前にも増して危機的な状況下でダイアモンド採掘が行われています。

 

ロシアのダイアモンド(Russian Diamond)
永久凍土帯にあるアイハル鉱山ミール鉱山
(Mining at Aikhal and Mir Mine in Siberian permafrost land)
凍土が溶ける夏のシベリアでは特殊車両が必要
(Transportation using special vehicle in summer)
 シベリアにダイアモンドが発見されたのは1950年代初頭,重工業化を進めていたソビエト政府にとって,重要な戦略物資でもあるダイアモンド探鉱は国家を挙げての事業でした。
 多くの地質学者や鉱物学者を動員してのダイアモンド探鉱の成功はその逸話が ”送られなかった手紙” と題された映画になり,日本でも1965年頃,毎年開催されていたソビエト映画祭で上映されました。
 ソビエト社会主義の絶頂期の頃です。
 ロシアのダイアモンド鉱山は原石100トン当り400カラット前後と高品位な上に,小粒ながら宝石質の結晶が多いのが特徴です。
 北極圏の永久凍土帯の開発と運営には膨大な費用がかかるので高品位の鉱山しか開発されません。
冬は零下50℃にもなりますが掘っていると地下から暖かい空気が上がってきて立て坑が崩壊したり,溶け出したメタンガスの噴出で火災や爆発の危険があります。
 夏には永久凍土が溶けて道路が遮断されるなど極めて困難な条件が多いのですが,世界のダイアモンド生産の20%を占めて,デ・ビアス社に対抗する一大勢力としてのし上がって来ました。
 1991年のソビエト崩壊後,石油,天然ガス,金,白金,パラジウム,ウラン等々,世界でも有数の豊かなロシアの資源や設備,社会基盤は全て私有化されました。
 本来なら全国民のものである国家資産と利権の大半を,10年足らずの期間に混乱のドサクサに乗じて,一握りの政治家,共産党高官,高級官僚とマフィアたちが強奪するという世界史上でも稀に見る経緯を辿りました。
 世界有数のダイアモンド資源はどうなってしまったのか ? 

 

ブラジルとボルネオのダイアモンド (Diamong mining in Brazil and Brunei)
ブラジルの漂砂鉱床のダイアモンド (Diamond exploration and mining in Brazil)
ポルトガル植民地時代の
ダイアモンド探検隊

(Early Portguese exploration)
同じ頃バイア州での
ダイアモンド採掘光景

(Early mining at Bahia)
北部ギアナ国境近くの
熱帯林での採掘光景

(Mining near Guainian border)
ミナス・ジェライス州の漂砂鉱床
(Alluvial mining at Minas Gerais)

 

ボルネオの漂砂鉱床のダイアモンド (Alluvial diamond deposits in Kalimantan, Brunei)
 ダイアモンドの生産量はブラジルが年間10万〜20万カラット,ボルネオは数万カラット前後と,主な統計資料にも出てこない程微々たる量です。 しかしダイアモンドの歴史を辿れば重要な役割を演じたのです。
 17世紀半ばにブラジルで豊富な漂砂鉱床が発見されるまで,紀元前から主要なダイアモンドの供給国であったのはインドのゴルコンダと並んでボルネオ(カリマンタン)の漂砂鉱床でした。 
 両産地合わせても平均して1万カラット程度でしたが,2000年に渡り世界のダイアモンドの需要を一手にまかなって来たのです。 ボルネオのダイアモンドの漂砂鉱床の起源が何処かは未だに不明ですが,現在でも人手による採掘が行われています。漂砂鉱床には豊富な砂金と白金も産出します。
 17世紀半ばにブラジル各地で発見された漂砂鉱床からは年間10万カラットと,それまでの10倍の豊富なダイアモンドが供給されるようになり,王族や一部の支配者しか手に出来なかったダイアモンドが一般の富裕層にまで広がりました。
 ブラジルのダイアモンドの潤沢な供給があって初めてダイアモンドが宝石の世界で確固たる地位を占めるに至ったのだと言っても過言ではありません。
 ブラジルではその後各地に合計600本のダイアモンドを含むキンバリー岩とランプロアイト岩のパイプが発見されています。
 しかし品位が低く採算が採れないため,採掘は昔ながらの漂砂鉱床にて行われています。
 写真のギアナ国境近くの鉱床での採掘量は一ヶ月に15カラットと微々たる量です。
 細々とした漂砂鉱床でのダイアモンド採掘ですが,前述の産地の鬼気迫る光景と比べると,何となくのんびりとした雰囲気でほっとする思いがします。
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