カシミールのサファイア
(Kashmir Sapphire)
カシミール・サファイア 2.034ct 7.75x7.51mm |
カシミール・サファイアの結晶と透明度, 色の濃さの異なる3つのルース 6〜14ct Ecole des Mines, Paris France |
カシミール・サファイア 3.03ct Dice Vice Gem & Mineral Trade & Brighton Co.m Ltd. Kobe, Japan |
カルチエのパンテールブローチ 152.35ct Kashmir Sapphire by Cartier 1949 |
化学組成 | 結晶系 | モース硬度 | 比重 | 屈折率 |
Al2O3 | 三方晶系 | 9 | 4.03 | 1.762-770 |
宝石には,その美しさと稀少さ故に様々な伝説があります。
ゴルコンダのダイアモンド、モゴクのルビー,ムソーのエメラルド、そしてカシミールのサファイア等、いずれも比類のない品質と色合いとで伝説的な存在となっています。
これらの宝石産地の名前は、およそ宝石に関心のない人でも,何処かで読んだり耳にしたことがあるかとおもいます。
モゴクとムソーとは現在でも依然として世界で最上級のルビーとエメラルドの産地ですから何時でも見ることが出来ます。
ゴルコンダの漂砂鉱床は現在では枯渇してしまっていますが、かつて産出した Koh-i-noor (コーイヌール)、Regent (リージェント)、Great Mogul (グレート モーガル)等個々に名前がついた巨大なダイアモンドは世界の王室や博物館等に展示されたり、本や雑誌などで見ることが出来ます。
ところがカシミールのサファイアとなると、宝石の専門書ではコーンフラワー(矢車菊)云々と、その独特の色合いについて必ず言及されてはいますが写真も無い場合が大半で、多くの宝石,結晶愛好家の欲求不満を掻きたてるばかりでありました。
宝石そのものが市場に出ることも滅多にありませんから、伝説というより,もはや幻の宝石と言えましょう。
カシミールサファイアの産地 ザンスカール山脈 | ||
左側上部灰色の帯の下が Old
Mine その右上標高4550mが New Mine |
クディ谷の眺望 背後にザンスカー山脈 |
インドとパキスタン国境地帯の北にカラコルム山脈、南に大ヒマラヤ山脈とに挟まれた500kmの間にラダク山脈とザンスカール山脈とが並行して北西から南東に伸びています。そのザンスカール山脈のほぼ中間の高地にバッダール渓谷があります。
サファイアがこの地で発見されたのは1881年、山崩れで露出した標高4500mパッダール渓谷のクディ谷の岩壁の窪みの中に青い結晶が見出された時とされています。
以前から現地ではときおり発見される不透明で灰色の石が火打石や砥石として使われていたようです。
結晶の発見は村人の興奮を巻き起こしました。
けれどもそれが何なのか正体が分からなかったので、5290mの峠を超えてやって来た行商人達はしぶしぶ同じ重量の塩と交換したとのことです。
けれどもインドの大きな町,クルと夏の首都シムラへ行商人が運んだ青い石がサファイアであると鑑別され、1882年末には宝石商の一団が宝石質結晶のロットに9万ドルを支払いました。
既に良質の結晶が豊富に供給され始めていたのでした。
まもなくカシミールのマハラジャが鉱山の所有権を主張し,1883年には軍隊を派遣し村人を締め出して、後にOld Mineとして知られるようになる鉱山の運営を始めました。
その後1887年までの間に鉱山での最上質の大型結晶の大半が採取されたと考えられています。
1887年にインド地質調査会の為に当地の地質調査を行ったフランスの鉱物学者ラ・トゥーシュでは大きさが12.5x7.5cm、数千カラットもある宝石質の結晶を何個か見たと言います。
またクリケットのボール(直径7cm程)より大きい球形の深い青の結晶や、20カラット以上あるカットされた石,さらに政府の役人が持っていた大きな結晶等々、息を呑むような逸品がカシミールとジャイプール王室に所蔵されていたとのことです。
ラ・トゥーシュは鉱山の下に崩落した堆積にも注目し、採掘の結果933カラットの大型の結晶を発見しました。カシミールからは以後大型の結晶は報告されていません。
またOld Mine鉱脈もこの頃には枯渇してしまった。
したがってカシミールのサファイアは、発見後の数年間に採掘された推定で100kgほどの最上の原石が、一部はカットされてごく僅か市場に出まわり、幻のサファイアと呼ばれるほどの伝説の宝石となったものです。
その後正式な鉱山運営は停止され、1906年に堆積した漂砂鉱床からいくらかの上質な結晶が、また1907年以降、Old Mineから100m離れた地点に小さな家の土台程の鉱床が発見され,かなりの量の結晶が採集されました。
この周囲にも一連の鉱床群が発見され、後に新鉱山群(New Mines Complex)と呼ばれるようになりました。
レンズ状のペグマタイト鉱脈からは,以後1951年まで間欠的な採掘が行われて、合計で2トン弱の結晶が採取されました。
1963年〜1998年の採掘量は15トン、1998〜2001が9kg、2002〜2007年は21kgと、この地での採掘は継続されていましたが、殆ど無色〜暗青色の低品質の結晶ばかりで、初期のような高品質のサファイアは二度と姿を見せませんでした。
カシミールのサファイアの特徴
カシミールのサファイアは冒頭の3枚の写真からお分かりのように、それぞれの石により、微妙に色合いが異なります。
品質の揃った合成の宝石とは異なり、天然の宝石の場合は、個々の石毎に色合いや透明度が異なるのは当たり前のことです。
が、いずれの石にも共通のビロードのような潤んだ色合いは他の産地のサファイアには無いもので,これがカシミール産のサファイアの際立った特徴です。
このビロードの光沢は、結晶内部の微細な液体の小滴が帯状の層を成して光の散乱を起こすためと考えられています。
一般にはこのような構造の宝石は不透明になってしまうことが多いのですが、カシミールの最上級の結晶はペグマタイト鉱脈の熱水の中で不純物の少ない環境下で成長したために、透明感のあるビロードのような光沢を持つのだと考えられます。
しかし、それは初期に採れたごく一部の結晶に限られます。
カシミールのサファイアが今や幻のサファイアと呼ばれる所以でしょう。
ジルコン、斜長石、アラナイト等の結晶がインクルージョンとして含まれますが、その他にトルマリンとパルガス閃石が含まれることが、他の産地には見られない特徴です。
カシミールサファイアは、ビルマやスリランカの広域変成岩起源のサファイアや、タイ・オーストラリア等の玄武岩起源のサファイアとも異なる独特の澄んだ色合いですが、下図右の、吸収特性にその特徴が現れています。
2.034ct 7.75x7..71mm カシミール・サファイアに特有の
パルガサイト インクルージョン x45液体状インクルージョン x90 青 :カシミールサファイア
緑 :広域変成岩起源のサファイア
赤 :玄武岩起源のサファイア
カシミール地帯の地質
カシミール地方は,ヒマラヤやカラコルム,ヒンドゥークシュと同じように、約5500万年前にインド大陸がユーラシア大陸に衝突して出来た山脈の中にあり、やはり多様な宝石の産地として知られるパキスタンのフンザ渓谷と似た複雑な変成岩地帯です。
サファイア鉱床はペグマタイト脈のレンズの中に成長し、周辺にもルベライト(紅電気石)、アクアマリン,ガーネットなど宝石級の結晶が発見されています。
1980年当時採取された結晶 数kg ファセット可能は数カラット |
カシミール・サファイア結晶 3cm | 4cm |
Kudi Valley, Kashmir、India |
写真の様に現在でもサファイア結晶は採取出来ます。
標高4500mという地理的な条件と、インドとパキスタンとが軍事的な衝突状態にあるという政治的な条件とが重なり、長い間この地の本格的な調査が行われていません。
したがって何時の日か、この地域に新たなサファイア鉱脈が発見される可能性が無いとはいえません。
新カシミール・サファイア産地 ?
3.19ct 11.8x7.2x4.8mm 結晶とルース 0.96 − 1.98ct 標高4000にある鉱山 Basil, Kaghan Valley, Azad Kashmir, Pakistan
ほぼ枯渇してしまったと考えられるカシミールのサファイアですが、2011年の後半頃からカシミール産と称するサファイアがネット市場に登場しました。
今回入手した3.19ctのルースは恐らく次の写真の2点の結晶と3点のルースと同じ産地の Basil で1996年頃から報告されているサファイアと思われます。
3ヶ所で採掘されています。
大半はカボション級ですが、近年は1−2カラットのファセット級が採れるようになったとのことです。
とは言え、かなりの包有物とカラー・ゾーンがあり透明度に欠ける小さなルースが大半です。
パキスタン側の自由カシミール地方で採掘しているのが Kashmir Gem Ltd.ですからカシミール・サファイアと呼んでも詐称ではありません。
しかしながら、伝説のカシミール産とは色合いも品質も異なる、紫色のサファイアです。
内包物が多いが、美しい赤紫が特徴です。
パキスタンでは1970年台末頃からカラコルム山脈のNangimalの標高4500mの地点にルビーが発見され、更にフンザ峡谷、Basha峡谷、Kaghan峡谷等、インダス河源流一帯に次々とサファイアの鉱床が発見されています。
いずれも大理石起源の良質の鉱床ですが、標高3000mを越える不便な山岳地帯で夏だけの短い期間にほぼ人力のみで硬い母岩を掘っているため供給量は限られています。
カシミール・サファイアの価格幻のサファイアですが、前述の様に、マハラージャや個人のコレクション,往年の宝飾品等々が僅かながら市場に姿を見せます。
古い資料ですが1904年頃,当時の宝石のカッティング・センターであったロンドンではカシミール・サファイアの結晶は1オンス当たり20ポンド(120ドル),即ちカラット当たり86セントであったとのこと。
1930年代の終わり頃,カットされたカシミール・サファイアの値がカラット当たり500ドルを超えることはなかったということです。
1980年代のニューヨークでは最上のカシミール・サファイアはカラット当たり15,000〜20,000ドルと、最上級のダイアモンドに匹敵する値で取引されていました。
1979年から2008年の30年間に世界の主要なオークションで落札されたサファイアのカラット当りの価格で上位150のうち121がカシミールサファイアと圧倒的な地位を占めるようになりました。
とりわけ2005年頃から高級宝石の急激な高騰が始まり、最上級のカシミール・サファイアはオークションにてカラット当り39,000〜135,000ドルに跳ね上がりました。
2009年に香港のクリスティーズのオークションでは16.65カラットの石にUS$ 2,396,000、カラット当り144,000ドルの史上最高値が付けられました。
最上の翡翠製品や稀少なカシミールサファイアを中国の富裕層が投機の対象として買い漁っているとの事です。贋物にご注意 !!
幻の宝石でありますから、それをタネに一儲けしたい悪徳商人の暗躍も良くあること。
1995年の池袋の鉱物・化石フェアに香港の業者がカシミール・サファイアとしか思えないほどのルースを出品していました。カラット当たり一万円と値段が値段ですから,もちろんカシミール・サファイアの筈はありませんが、ルーペで見ただけではどうしても分かりません。入手して調べた結果、コーティング処理をした贋物と判明しました。
カシミール産を思わせる美しい色のサファイアですが
実は無色のコランダム(左は天然、右は恐らく合成)に
コーティング処理をしたもの。
左のルースはかなりの羽毛状インクルージョンにより一見
カシミールサファイアのビロードのような光沢。
右のルースは背面のコーティングが剥れて稜線に沿って
無色の地が白く現れました。1.5ct
8.0x6.5mm3.6ct
10.0x8.0mm
さらに普通のサファイアの下部の面だけを粗い仕上げにして、底面からの反射光の乱反射により、一見カシミールのサファイアに似た潤んだような効果が出る仕上げをしているものもあります。
背面を詳しく調べれば分かりますが、宝飾品として細工してしまえば素人には分かりません。
くれぐれも高価な宝石は確かな店で買うことをお勧めします。
間違っても香港やタイの怪しげな筋と関わってはなりません。