宝石読本

Z 幻の宝石

アレクサンドライト(Alexandrite)

 

ロシアのアレクサンドライト 1.29ct
上 白熱光 下 太陽光
Ural Mtns. Russia
アレクサンドライト結晶群 
12x7cm ウラル山脈 タコワヤ川
ロンドン 大英自然史博物館
同 最大の結晶群 13x8cm
 中央の結晶は直径 6.5cm
モスクワ フェルスマン鉱物博物館
白熱光下のアレクサンドライト
0.95 - 2.49ct
Hematita, Minas Gerais, Brazil

ウラル山脈とブラジル・エマチータのアレクサンドライト
自然光(Daylight) 白熱光(Incandescent light)
1.29ct 1.06ct            1.32ct 1.29ct 1.06ct           1.32ct
Ural Mtns. Hematita, Brazil Ural Mtns. Hematita, Brazil

 

 再びフェルスマン著の“石のおもいで”からの引用 : ”・・・なんでも、やつらのロシアにはこんな石があるというのだ。−昼間は緑色で,陽気で,清らげなのに,夜になると血があふれてまっ赤になる。人殺しがあったわけでなく、ええと、そのなんでもないんだよ。だが血は,毎晩,その石にあふれるのだという。おまえさんがたはそれをアレクサンドル石とよんでるそうだな。・・・”
 ロシア特産の宝石なのに、アレクサンドル石については、この本ではたった数行の伝説のような逸話が書かれているのみです。
それにしても、昼間は緑で、夜になると真っ赤になる石とは一体そんなことがありうるのだろうかと、子供心にも不思議に思い,忘れることの出来ない宝石として記憶に残りました。
 そしてアレクサンドル石とはどのような宝石なのか、この数行の記述が余りにも謎めいていて漠然としていればこそ、なおさら本物を見たいものだと言う願望にとらわれたのでした。 しかしながら40年以上も昔の日本の地方都市では、いやたとえ東京の一流の宝石店ですら、アレクサンドル石を持っている筈もありませんでした。もちろん科学博物館にもありませんでした。
 しかし実は当時の日本の宝石店でアレクサンドル石(アレクサンドライト)と称する宝石はふんだんに売られてはいたのでした。
当時の金額で数千円程度の(当時としてはサラリーマンの一ヶ月の給料に相当するほどの大金でしたが)アレクサンドライトの指輪としてでしたが。しかしそれが実は本物ではなくて、合成のコランダムやスピネルに5酸化ヴァナジウムを添加したイミテーションでありました。
 本物を見ることが出来たのは十数年後のこと、2000万円もの値札がついた代物でしたが、昔見た数千円のイミテーションのアレクサンドライトそっくりだったのです。 その後あちこちで本物を見る機会はありましたが、たいていは寝ぼけた灰緑から褐色へと色変わりはするものの、決して陽気で清らかな緑と、血があふれてまっ赤になったりはしませんでした。
 あの伝説のアレクサンドル石は一体本当に存在するのでしょうか ?

 

1834年 4月 ロシア・エカテリンブルグ近郊タコワヤ川エメラルド鉱山
19世紀末当時のウラル山脈・タコワヤ川のエメラルド・アレクサンドライト鉱山
1890年頃の鉱山 同 河畔の選鉱設備 露天掘りの坑道 エメラルド選別工場 1927年
 1834年4月、ロシアの皇太子アレクサンドルII世の成年式の年にエカテリンブルグの北90km程の地点にある、タコワヤ川のエメラルド鉱山にて、昼の光では緑に,夜の白熱光の下では赤く見える鉱物が発見されました。
 奇しくもそれはロシア陸軍の制服の赤と緑の色でもありましたから,後に(1842年)アレクサンドル石(アレクサンドライト)と命名されました。
 この不思議な色変わりをする石は、クリソベリル(金緑石)の一種で、色変わりの原因はクロムを含むためと、後に判明しました。
しかしながら、エメラルドの緑からルビーの赤への鮮やかな色変わりを見せる石は極めて僅かしか採れませんでした。
 結晶の多くは不透明であったり亀裂や包有物のためカットに値するほどの品質のものは稀で,また3カラットを超える大きさの最上のルースとなると、全ての宝石の中でもっとも稀少で高価な宝石とされたのでした。
 この鉱山はロシア皇帝の直轄の鉱山となり,その後外国の会社にリースされ,ロシア革命後は再び政府の国営鉱山となって、エメラルドの他にベリリウム採掘のための鉱山として運営され、近年では再びエメラルド鉱山としてさらに開発が進められる、と実に長い寿命を保っています。
 しかしアレクサンドライトを産出したのは19世紀中がピークでその後の産出は激減した模様です。
 近年では標本級の結晶こそごく少量ですが市場で見かけますが、宝石としてのウラル山脈のアレクサンドライト資源はほぼ枯渇してしまったと考えられています。
  けれどもロシア産のアレクサンドライトを使った宝飾品は1950年代頃までは市場に流通していました。
 それはティファニー宝石店の買い付け担当者であったクンツ博士が20世紀初頭にロシアを訪れ、かなりの量の原石を入手しストックしていたからです。 
  ニューヨークのロシア宝石の専門店 “La Vieille Russie” が扱ったアレクサンドライトの半数以上はティファニーから仕入れたもので、クンツ博士が買い占めたアレクサンドライトは相当の量であったと思われます。
 したがって20世紀前半の世界のアレクサンドライト宝飾品の大半をティファニー宝石店が供給していたと言うことになるでしょう。 とは言っても,ティファニー宝石店の在庫が永遠に続く筈もありません。
 20世紀後半にはロシアのアレクサンドライトは市場から全く姿を消してしまいました。
稀に見かけるのは、古い宝飾品から再研磨したものか、あるいはアンティークやオークションでのティファニー製の宝飾品の出物が唯一の供給源となっていたのです。
 その後アレクサンドライトはスリランカ、ジンバブエ、マダガスカル、ブラジル,タンザニア等で発見されましたが、品質はロシアのそれに遥かに及ばず、昼はエメラルドの緑で、夜はルビーの赤になるアレクサンドライトは幻の宝石となってしまったのです。

 

1987年3月 ブラジル ミナス・ジェライス州 イタビラ近郊エマチータ鉱山
長石が風化した
カオリン層
の鉱床
押し寄せた数千人のガリンペイロ
(鉱夫)が掘った鉱区
軍と警察によって水没させられた鉱区と武装警官による
警備の隙を見て採掘しようとする鉱夫たち
Hematita, Minas Gerais, Brazil
 市場への供給が途絶えて半世紀余り経ち、もはや幻の宝石となっていたロシアのウラル山脈産に匹敵するアレクサンドライト鉱脈発見のニュースに世界の宝石関係者が色めきたったのは1987年3月のことでした。
  ブラジル,ミナスジェライス州南部の世界的な鉄鉱石鉱山の町イタビラの町から東へ20km程,その名も赤鉄鉱 (エマチータ : Hematita) の町の郊外のラヴラ・ド・エマチータ (Lavra do Hematita) 鉱区でありました。
エマチータ鉱区発見の経緯
  アレクサンドライトを発見したのは二人の10才の子供達でした。
二人は常日頃宝石採集をしていて、近所のユーカリ林の中のせせらぎで宝石の結晶を見つけたりしていたのでした。 ユーカリの木はイタビラでの鉄鋼精錬用のコークスの材料として栽培されているのです。 
 さて、二人は集めた宝石結晶を時々近所のサンタマリア・デ・イタビラの町に行っては僅かな小銭と引き換えに売っていました。
  1986年10月のある日いつものように集めた結晶を売りに行った子供達は、紅柱石(アンダルーサイト)なら何時でも買い取るからもっと掘っておいでと言われて、翌月もっと沢山掘ってはまた売りに出かけました。
 町の宝石買取人は、子供達から買い取リ、かなりの量となっていたアンダルーサイトを,たまたまテオフィーロ・オトーニから買い付けに来ていた宝石商に売ったのでした。
 宝石商は,仕入れたのがアンダルーサイトではなく,ひょっとするとアレクサンドライトではないかと疑問を抱きましたが.
 テオフィール・オトーニに戻って調べたところ、正しくアレクサンドライトであり、それもこれまで見た事もない逸品であることを確認したのです。
  商人は発見者を探り当てて,子供達の両親達に会って真実を告げました。
 両親は直ちに政府に採掘権を申請し,許可を待たずに採掘を始めました。
そしてこの発見は公表しないようにと,関係者間で秘密にすることを申し合わせました。 
  何故なら鉱区のある土地はブラジル鉄鋼社が所有していますが,州の法律では許可を受けたガリンペイロ(鉱夫)なら誰の土地であろうと勝手に入って自由に掘って良いことになっているからです。
 かくして,密かに採掘された最初の21.5gの収穫が1987年1月末にテオフィール・オトーニにて待ちかまえていた宝石商達に届けられ、それがかつて見たこともなかった紛れもなく最上のアレクサンドライトであって、新鉱脈の重要さが再確認されました。
 2月8日に最初にカットされた合計11カラットの5個のルースが日本人の宝石商に4万ドルで買い取られました。
  しかし早くも1週間後の2月15日には鉱脈の存在を嗅ぎ付けて数人の宝石商とガリンペイロ達がエマチータに現れ、その人数は3月15日には大河の流れのごとく膨れ上がり、3月末には,三角形の500u程の狭い鉱区には3000もの穴が至るところに掘り返されている有様でした。
 そして鉱区を巡る争いや、採掘された石の奪い合いやらで、日夜銃弾が飛び交う修羅場と化し、連日死傷者が続出する騒ぎとなりました。
  その傍らで,世界中から駆けつけた原石買い付けの宝石商達の札束も飛び交い、僅か3ヶ月の間に500万ドルの取引が行われたと。
 原石を掘り当て、一文無しから一躍大金持ちとなる幸運な鉱夫が出る一方で,いくら掘っても何も見つけられない鉱夫も多かったのは言うまでもありません。
 3ヶ月間で数十kg採掘されたと推定されるアレクサンドライトの70〜80%は4月15日から5月15日までの1ヶ月間に集中して採掘されました。
  そして興奮と争いもますます高まり,ついに6月18日に軍の警察が鉱区を閉鎖するに至りました。
 しかし文無しの鉱夫達は容易には諦めません。鉄条網で閉鎖された鉱区の周りをうろつく数千人の鉱夫達は月明かりを頼りに夜間の採掘を強行し、また銃撃戦も引き続き頻繁に起こったのですが、100人程度の警察では到底阻止できません。
 15人もの死者と無数の負傷者が出るに至り,ついに軍は近くの川から水を引いて鉱区の大半を水没させてしまいました。
  鉱区は翌1988年の3月に再開される予定になっていましたが,その後どうなったか消息がありません。
恐らく再開されても、大半のアレクサンドライトは短期間に掘り尽くされてしまっていたと考えられます。
 かくしてロシアの最上のアレクサンドライトに匹敵するエマチータの新しい鉱区は僅か3ヶ月余りの採掘の果てに再び幻となってしまったのです。
 
エマチータ産アレクサンドライトの品質
 僅か3ヶ月余りの期間採掘されただけのエマチータは、しかしロシア産の最上級品に匹敵する高品質のアレクサンドライト結晶を大量に産出したことで宝石界に永久に記憶される地名となりました。
 3ヶ月間の総産出量は50kg程度であったと推定されています。
そのうち10kgの結晶から透明度が高く顕著な色変わりをする10,000〜15,000カラットの最上のルースが得られたと思われます。
  大半の結晶は1gに満たない大きさですが数千個の0.2〜6ctの大きさの中級から上級のルースが得られました。1〜2ctのルースも少なくありませんが、3ctを超える大きさは15%未満であったと考えられています。
  10ctを超えるルースも少なくなく、最大のものは30ctに達し、10ctを超えるキャッツ・アイも何個かカットされました。
 全体の50〜60%が,とりわけ小さいルースは透明度が高く、40〜45%が緑がかかった青からピンク〜赤への色変わりを示します。
 このように高い比率でロシアの最上品に匹敵する色変わりを見せるのは酸化クロムの含有量が0.30〜0.44wt.%と高いためです。
  その上透明度の高い結晶の比率が20%程度あったことは、アレクサンドライト結晶が美しい結晶の成長に適したペグマタイト鉱脈で生成したためと考えられています。
 ロシアの鉱脈は接触変成鉱床ですから、亀裂が多く,不透明な結晶が大半で宝石質の結晶は僅かしか採れなかったのです。
アレクサンドライトの市場評価
  最初にロシアで発見された当初からもっとも稀少な宝石であったアレクサンドライトは、昼の光ではエメラルドの緑、夜の白熱光ではルビーの赤になるという特異な色変わりを示す世にも珍しい宝石としての評価を確立していました。
 とりわけロシアの資源が枯渇してからは、それに匹敵する品質の産地が皆無であったため、1980年代にはロシア産の2〜3ctの最上品はカラット当たり15,000ドルと,最上級ダイアモンドのD−FL級より25%も高く、もっとも高価な宝石の地位を確立していました。
 因みに同じサイズのブラジル産も10,000ドル程度、かなり質の落ちるスリランカ産でも7000〜9000ドル,透明度は高いがやや淡い色合いのタンザニア産が3000ドルと、極め付きの高価な値段で取引されるのです。
 ただしこれらの価格の背景には、日本の宝石市場の特別な事情を考慮する必要があります。
 アレクサンドライトを始め、パライバ・トルマリン、ブラック・オパール、最上級のエメラルド等々、稀少な宝石の最上級品は世界の産出の大半が日本の宝石市場に吸収されているのです。
  天文学的な値段になる数カラットから10カラットを越える博物館級の逸品は別として、とりわけ0.3カラットから1カラット未満の小粒の上質の石への需要が圧倒的に多いのが日本の宝石市場です。
  即ち20万円から100万円程度の宝飾品に使われる小粒の石でも品質だけは最高級を求めるというのが、日本の宝石市場の特徴です。
 採掘される宝石の大半は1カラット未満の小粒の石ですから、その需要の大半が日本市場に吸収されます。
  実際、海外の著名な宝石店でさえもアレクサンドライトなど滅多なことではお目にかかりませんが、日本ではちょっとした宝石店やディスカウント・ストアにさえもアレクサンドライトを見かけます。
 シルクロードの昔から、海の彼方からもたらされる貴重な舶来品に憧れを抱き続けてきた日本人のDNAがしっかりと定着しているのでありましょう。

 

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